第7話「クレハとシン」
◇シン
今日のクレハは、どこかおかしい。
練習後、夕日に染まる帰り道を辿りながら、俺は隣を歩く幼馴染のことばかり考えていた。人通りの少ない山際の道路。海に沈もうとする太陽の紅い日差しが、ガードレールの向こうから世界をさみしげな色に染めている。ときたま通り過ぎる車の音だけが、俺たちの間に流れる沈黙を壊していった。
……いや、いくら車が通ったところで、俺たちが黙っていることには変わりないのだが。
どこがおかしいのか、なぜそう感じるのか、言葉にするのは難しいのだが、なんとなくそう思う。本当になんとなくだ。なんとなく心ここに在らずというか、練習中も後半からあまり試合の指摘をしなくなった気がするし、なんとなく口数も少ない気がする。元気がない、というわけではないと思うが、落ち込んでいる気がしなくもない。
……さっきから「なんとなく」と「気がする」ばっかりだ。もう十年以上の付き合いだというのに、こういうことに関しては本当に自分が情けない。
むかしから他人のことを考えるのは苦手だ。俺にはSCがあったし、他のことは文字通り、二の次だった。そもそも人間、誰しも自分が一番だろう。それなのに人のことを気にしすぎるのもおかしな話だと思う。そんなだからだろう、友人はたくさんいても、親友というのはよくわからないし、それを寂しいと思ったこともない。
でもクレハは別だ。
現に俺は今、クレハのことばかり考えているし、それで気分も落ち着かない感じだ。単純に言うとあれだ、調子が狂う。いつも通り、くだらない話からSCの話まで、何でもできるクレハでいてほしい。
……もう直接聞くか。
クレハのことを俺が一人で悩んでいても何も解決しない。もし本当に何かに悩んでいるなら、俺だって話を聞くくらいはできるだろう……できるよな? できるはずだ。もし俺の思い過ごしだったら、それはそれで万々歳だしな。よし。
「クレハ、今日はどうした?」
「へっ? い、いや、なにも! 何もないけど!?」
名前を呼ぶや否や、クレハはびくっと肩を震わせ、若干食い気味に答えた。
……明らかに動揺している。ちょっといきなりすぎたか。
でも動揺するということは、やっぱり何かあるんだろう。これは――踏み込んでもいいのだろうか。いや、でももう聞いちゃったしな。ここまで聞いておいて「そうか、何もないのか」では終われないよな、さすがに。
「いや、何もないわけないだろ。今日の練習、後半から明らかにおかしかったぞ。ダウンのときもずっと黙ってたし」
言いながら思い返してみる。普段なら、ストレッチやアイシングをしながらその日の練習の反省というか、意見交換みたいなことを自然とやっている。そうでなくても、テストの話とか宿題の話とか、適当な雑談はしていた。なのに今日はほとんど無言。特に、チトセとの練習が終わったあたりからはずっとだ。喧嘩をしていたって、もっと言葉を交わすだろう。
「もしかして軽い熱中症にでもなったか? まだ春とはいえ日中は暑いし……」
思い出すと、だんだん不安になってきた。もしそうなら、俺は具合の悪いクレハを無理に自分の練習に付き合わせていたことになる。自分のせいでクレハが辛いというのは……なぜだろう、すごくいやだ。申し訳ないとか、責任を感じるとか、そういう感情もあるのだろう。でも何かが違う。俺が今抱いている『いやだ』という気持ちは、そういう言葉で説明できる感情ではないような、そんな気がする。
「いや、体調は全然! そこは、本当に大丈夫だから……」
クレハの声が尻窄みに消えていく。今の言い方なら、本当に体調は大丈夫なのだろう。でも、
「体調は、か。まあ、それならいいんだけど」
それ以外の問題ならある。けど、この様子だと聞いても答えてはくれないだろう。もし相談できることなら、クレハはきっと相談してくれると思う。
俺が何も聞かないでいると、クレハも何かを言いたげに、いや、言いにくそうに、かな。横目でこちらを見ているのが分かった。
「……ごめん、心配かけて。でも、あまり気にしないで。シンにはSCに集中してほしいし、私も、これからは気を付けるから」
俯いたクレハがそうつぶやく。ああ、俺に気を遣わせまいとする、クレハらしい優しい言葉だ。でも……。
「気を付けるって、なんだよ」
それを聞いた瞬間、考えるより先に、言葉が口をついて出ていた。
「シン?」
「なんか、うまく言えないけど、違うだろそれは。そりゃ、俺はSCが好きだし、SCさえあればいいくらいには思ってるよ。でも、それとクレハを心配することは全然違うことだろ」
なんだ、俺。今イラっとしたのか? クレハの言葉は俺を思う言葉だった。俺のことだけを考えていた言葉だった。それは理解している。それなのに、反射でどんどん言葉が出てくる。止めようとしても、考えようとしても、それを追い越して溢れていく。
「今の言い方、俺を心配させないためにお前が頑張るのか? 違うだろ、クレハが頑張ってるのは知ってる。俺もそれにいつも助けられてる。でも、その頑張りはクレハのためだろ。クレハのためじゃなきゃ、ダメだろ……!」
急に何を言い出してるんだ。でも、今のクレハの言葉は、なんだかとてもイラっとする、もやッとする。胸にとげが刺さったような、居心地の悪さを感じる。クレハの努力は、よく知っているつもりだ。でも、その本人が、自分の努力をないがしろにするようなことを言うなら……。
「……なんでそんなに頑張ってるんだ」
俺は、それを見逃せない。
クレハは今、本当にやりたいことをやれているんだろうか。いや、やれているならあんな言葉は出てこない。あんな、自分を犠牲にするような言葉は。
俺はクレハの頑張りに誰よりも支えられて、誰よりもそれを近くで見てきた。なら、今度は俺がクレハの力になりたい。いや、自分なら力になれる。そう思った。
「クレハ、お前はっ――」
――そんな風に思い込んで、それ以上に考えることをやめてしまった。そして、何ひとつ疑うことなく、俺は自分の思うがままに、問いかけてしまった。
「本当は、なにを頑張りたいんだ?」
足を止めて。真正面から瞳を見て。俺はクレハの心に勝手に踏み入った。
だから、
「――っ」
その瞳が濡れていることに気付いたとき、なにも考えられなくなってしまった。
「くれ……は」
唇をかみしめ、瞼を震わせ、零れるまでは涙じゃないと、目尻にたまる雫を否定するようにこちらを睨みつける濡れた瞳。
「わかってるよ……」
薄い唇が開いて、小さなつぶやきを漏らす。
聞き逃してしまいそうなほどだったその声は、どうしてか、しっかりと耳を通ってその意味を届けた。
とても短い、震えた声だった。その震えは、悲しいから? それとも、震えるほどの怒りを、俺に感じたのだろうか。
その真意が知りたくて、あるいは知りたくなくて、もう一度その名前を呼ぼうと口を開きかけた、その時。
溜まっていた涙はついに、零れ落ちた。
「わかってるよッ! そんなことっ!!」
俺は、目を見開いていたと思う。
この瞬間、車も人も通りかからなくてよかった。通っていたら声を掛けられていただろう。そんなことを思った。
「ッ……わかってるんだよ、そんなこと」
しゃくりあげながら、クレハは三度目の言葉を口にした。
「自分が……何をしたいとか。何のために、頑張ってるとか」
途切れ途切れの言葉をつなぎ合わせて、自分の気持ちを伝えようとしている。
「そんなこと、シンに言われなくても……わかってるんだよ」
その言葉に耳を澄まして、もうほかの音は何も聞こえない。ただクレハの震える声だけが届く。
「ただ一緒にいるだけじゃダメなの……。でも、シンにはSCだけを見ていてほしい。そんなシンだから、私は……わたしは……!」
言葉を聞いただけじゃあ、SCしかやってこなかった俺ではクレハの言いたいことの半分も理解できない。でも、クレハが今泣いているのはきっと、俺のせいなのだろう。それだけは分かってしまった。
分かりたい
もっと、こいつのことを分かりたい。
自分以外はどうでもいい。SCさえあればそれでいい。それが俺のはずだ。昔決めた、昔夢見た、俺の生き方のはずだった。
でも、ああ、どうしてだろう。
俺は、クレハのことだけは、もっとちゃんとしたい。
「クレハ」
「シン……私は」
「クレハ。SCをしよう」
クレハの言葉をさえぎって、俺は言う。
言葉で聞いたってわからない。もちろん、拳で語るなんて昔の不良漫画みたいなことをやるつもりもない。でも、それでも。俺とクレハの間にあるのは、やっぱりこれしかない。
「昔、俺がアヤメさんに弟子入りした時、お前言ったよな。私もいつか、SCをやりたいって」
ずっと、クレハが俺に付き合っているのはSCのためだと思っていた。もちろん、それは理由のひとつなんだろう。でも、もう十年だ。魔法を使えないクレハが、SCをただ横で見続けて十年。SC以上にこだわる何かがあるから、クレハは今もこの場にい続けている。
勘違いかもしれない。
思い上がりかもしれない。
でもその理由に、少しでも俺の存在が触れているなら。十年間、俺のそばでSCを見続けてきたクレハが、この言葉に揺れないはずがない。
「それが……できるなら」
いっそう淋しげに絞り出されるその声に、俺は「できる」と即答する。根拠なんかなくても、断言するしかない。そうしなきゃクレハは、俺たちは、前に進めない気がする。それに、SCのすべてに魔法が必要なわけじゃない。
クレハが今すぐにできるSCだってある。
「海浜公園まで行って、
模擬戦。SCのアップや初心者が行う練習メニュー。魔法を使わず、己の身体能力だけでSCを再現する、スパーリングのようなものだ。
「それならクレハでもできる。いや、案外クレハのほうが強いかもしれないぞ。なんたって、魔法を使わずにSCを理解する化物なんだから」
言って自然と笑みがこぼれる。
魔法で強化された身体能力で動き回り、格闘戦だけでなく魔法攻撃も行うSC。それを娯楽ではなく競技として楽しむには、当然その動きを観察し、理解する必要がある。そんなの、普通の動体視力じゃ不可能だ。SCの解説はフェンシングのようにハイスピードカメラを使うのが一般的だし、選手が観戦するときは魔法で視力だけは強化し、その動きをとらえようとする。
だが、それを魔法も使わず、素の状態でやっているのがクレハだ。これが笑わずにいられるか。SCにこだわらずソフトボールでもやっていれば、相当いい打率を持っていただろう。
「もう、なによ化け物って。それに模擬戦じゃ結局、SCをやることにはならない」
「そうだな。クレハの言う通り、これはSCの替わりだ。でも、今はこんなことしかできないけど――」
無意識に息をのむ。
これを言えば、俺はもうこれまでのように、クレハのことを見て見ぬふりはできなくなるだろう。クレハの存在は、SCと同じか、あるいはそれ以上の大きさで俺の中に残り続ける。そんな気がする。
でも、ためらうな。
大切だと思ったんだろう?
もっとちゃんと、向き合いたいと思っただろう?
なら伝えろ。これが、今の俺にできる精いっぱいの誠意なのだから。
「いつか必ず、俺がクレハに本物のSCをさせてみせる」
だから、来い。
向かい合ったクレハに、黙って手を差し出す。
クレハはその手を黙って見つめ、うつむきかけていた顔を上げた。
横顔に夕日がさす。少しだけ赤くなったその目の周りは、同じ紅に溶けて、もうわからなくなっていた。
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