森でおいかけっこ2

―――何故働いていない。そう怒りで怒鳴りかけるも思いとどまる。

 実際バッハは賢かった。愚民の中でも教養の無い狩人たちへ、感情をぶつけないよう自分を律している。

 馬鹿を褒め、耳障りの良い言葉を並べて働かせられる男だった。


 だから直ぐに冷静さを取り戻し気づけた。自分の部下だけでなく見渡す限り。

 数十人の狩人たちが動きを止め、同じ方向を見ていて、音が。


 ド、ド、ド、ド、ドド、ドド、ドド、ドド、ドド、ドド


 まず突発時に備えていた金級冒険者たちが、近くに置いてある武具を手に取る。

 一方で銅級の者たちはまだ動けていない。

―――この周辺は念入りに狩ったのに。―――大きく、速いな。角竜か?

 此処に来ている者は皆、角竜程度は狩っている。だから足音の違いも把握している。この足音はもっと『重い』。ただ脳が現実を認めたがらない。


 そしてバッハも動けないでいた。

 普段であれば金級と同時に動けただろう。しかし彼が持つ多くの情報の一つが邪魔をする。

 音の方角には、公表されていないが王竜狩り最大の懸念事項が住んでいるのだ。


―――馬鹿な。あり得ない。

 起こっている事へ『あり得ない』などと凡百な愚民同然の感想が浮かぶ。

 最大の懸念事項故に万全の対策が取られているのに。

 秘密裡に専門の金級狩人まで雇い動きを調べ、この本隊の音さえテリトリーへ届かないようにした。数日前にも遠方に居ると確認済み。

―――待て。そうだ。あの時の話だと今アレは最悪に最悪を掛けた事に。百年に一度と言われている、


 風が、バッハの髪をそよがせ。音がやんだ。

 そして木々の間からすり抜けるように、ゆっくりと。棘竜の二倍はあろうかという巨体が。誰も動けない。金級さえ盾を構えるのがやっとの奇妙な静寂。

 吠えた。


『バァォオオオオオッッ!!!』


 王竜の正面に居た或いは幸運な銅級が三人、魔術の爆発で鎧を砕かれはじけ飛び。時が動く。


「王竜だぁあああああ!! 戦え! 逃げられんぞ!!!」


 金級の必死の叫びを聞いてもバッハは剣を抜かなかった。冷静な部分は正しいと判断しているのに。

 王竜。しかも見るからに足の速そうな四足。逃げても追いつかれ、類まれな幸運で逃げ延びようとも深部の此処から物資無しではまず死ぬ。

 だが全員で戦えば酷く犠牲者が出るとしても狩れるだろう。しかし。

 そこまで考え、バッハは顔を今王竜が出てきた林の対角線上へ向ける。もしかしたら足音が聞こえたのかもしれない。全く認識していなかったが。


 もう一匹、そっくりの王竜が木の間に見える。やはり、悪夢そのものな事に番いだったのだ。

 偵察をしていた金級へ賞賛の念が浮かぶ。よくぞこの可能性に気づくほど近寄った、と。

 そしてバッハは希望の欠片も無い狩場に背を向け、逃げだした。


 走る。走る。重ねてきた鍛錬は裏切らず、美しい姿勢で木々の間を駆ける。

 背後の悲鳴と、何より王竜の吠え声が少しずつ遠ざかる事に励まされて。

 狩場から離脱するとすぐさま、皆で切り開いた道へ戻ったのはバッハの賢さの証明と言えた。お陰で素晴らしい速度で距離を稼いでいく。


 音も聞こえなくなり。それでも恐怖に急かされ走ったバッハがついに崩れ落ちた。

 経験したことが無いまでに心臓が痛い。しかし達成感がある。恐らく、逃げ延びたと思う。

 この道には人の匂いと跡が満ちている。それがかえって王竜から自分を守ってくれるだろう。

 

―――水袋も食料も無く、町まで帰るのは困難を極めるが、このトマス・バッハならば出来る。神はやはり自分を愛してくださっているでは無いか。そのご期待に応える義務がある!


 そう、困難な状況の中、絶望せず前だけを向き愚民との違いを証明したバッハの耳に、軽い足音が聞こえた。


「そんな……こんな事が何故」


 足音が近づいてくる。信じられなかった。確実にこの周辺は狩り尽くしたのに。

 吠え声が聞こえる。近い。そして理解出来ない。

 この声は、狩りの連携を取る時の声だ。しかしこの獣は狩り尽くしたはず。

 深部であるここなら生き延びていた可能性はあるだろう。

 だからと言って、走りつかれ、立つことも出来ない、この瞬間に? 幻聴か?


 幻聴では無かった。

 目の前の草がかき分けられ、慎重な足取りで姿を現したのは予想通りの狼。しかもバッハの知識より大きい。

 絶望の中、バッハが走る間も捨てなかった剣へ手を伸ばし、バッハの背後から別の狼がその腕に食らいつき。

 荒れた呼吸では生きたまま食われても悲鳴は小さかった。


******

 

 ……渡されたタブレットの暖かさが意識されてしまう。駄目だキニスンナ。

 うーん。画面上では繋げた獣道を激走した狼ちゃんが食いついてるけど。


「その表示は正確ですわ。そろそろ息絶えます」


「……疑ってすみません。折り畳み式のタブレットで出した指示がこんな森の中で実行されるというのが感覚に合わないんですよ」


 うっ。醜い言い訳。


「うふっ。しもべへの言い訳に気後れなさいますな。

 ではその調子で逃げだした者の始末をお願いしますわ」


 頑張ります。でも全部ご夫婦が食い散らかしそう。

 早々さっきの兄さんみたいに素早く味方は見捨てられんわな。

 アレは見事な見捨て逃げだった。アメリカ軍並み。


「おお、おお。大乱闘ですねぇ。狩人の皆さんも良く頑張る。流石はヌシを狩ろうという方々だ」


「ええ。これで狩られていたらヌシ狩りが流行となっておりました。我が主に感謝致します。……どうしてそのような疑わしい目を?」


「疑わしいと言いますか……。ついさっき走ったコースはここ数日案内されて一緒に走ったコースじゃないですか」


 しかもあのコースを走る時だけ、遊びと言われ今履いてる謎技術靴で全力疾走。


「はい。今までで一番無駄のない走りでした。お楽しみいただけたでしょうか?」


「……巨大生物に追いかけられるの、ちょびっと嬉しくさえありましたよ。映画とかで見て軽い憧れがあったんでしょうね。

 で、私が起きて大した日数も経たずこうまで綺麗に不意打ち出来たのは……。

 うん、と。何か違うな」


「つまり、我が主を起こした時期から此処まで計画済みで、目の前のモドキのヌシ狩りも全て把握していたのかと。それだけの情報収集と計算能力があるのか。

 そう、お尋ねになりたいのでしたら。その通りです。

 加えてアレらの思考は単純ですから、貴重な薬草や金銀の鉱脈を発見させてこのような行動を誘引するのも自由自在と申し上げます。

 ただヌシの一匹やそこらの為に我が主のご意向を無視する気は御座いませんわ。

 初めに申しましたように、数か月お休みになっても。というのは本当の事。

 ですからこのように計算上最も勤勉に働いてくださったのは僥倖と。

 有難うございます我が主よ」


 ふんむ。非現実的なまでに有能な話だが……疑うのは厳しい。目の前で内臓が飛び散ってるもの。……流石にグロイ。ああ、ああ。美人さんが。勿体ない。

 未だに自分の扱いも含めて色々本当かいなという感じが抜けないけども……そんな事より計算上最も勤勉と言って頂けた方が重要でしょうね。


「このような場、ご不快でしょうし戻られますか?」


「自分のしている事に慣れておきたいのですが……不味そうですかね? 心に傷を負いそうな兆候があるとか」


「それほどの変化は。でも暫く肉を見たく無くなりそうですわよ?」


「その程度は我慢しましょう。うつ病とかになりそうなら教えてください」


 第一もう終わる。逃げたのも勝手に死にそう。手を出すのは半日様子を見てからで良かろ……ああ。終わればお食事か。成程。こりゃタイガーホース物。

 ふん。我ながら身勝手な話。自分はもっとエグイ方法で肉を食べてきた癖に。


「そのように表情を律されなくてもよろしいのでは? 胃が動いてますのに」


「昔、虎哉という人から感情をそのまま表に出すと付け込まれるから逆を見せろと」


 って付け込むまでも無い相手へ何言ってるの。やれやれ。脳みそ見るくらいで動揺するか情けねぇ。


「我が主も中々適当に仰います。さて。今の所お働きは十分かと。タブレットをお預かりします。どうぞ♪」


 ……。渡してくれた時と同じく、そう言って差し出すは胸の隙間ですか。

 指示されたなら躊躇するのは愚か、だろう。では畳んで……緊張してやがる情けねぇ。まぁ、胸の間に手突っ込むなんて考えもしなかった危険行動だし仕方ないが。


「はい確かに。でもその緊張は非論理的ですわよ?」


「そうなんでしょうね。ただ……少しでも触れたら可能な限り色っぽい声を出そう。とか考えてませんでした?」


「あら、まぁ。―――少しお待ちください。今千景は十二万年費やして手に入れた知性が、非常に単純なブリキ脳なのでは無いか。という命題と戦っております」


 その言葉が本心か。こちらに合わせてくれた面白発言か分かんないです。


「悩ませてすみません。しかし貴方がAIで愚かな人間が死滅してるなら、胸の間に物を入れるなんてアホ演出、一体どうやって発想したんですか?」


 滅びる直前の頂点科学者どもが入力したとでも? だとしたら人類を滅ぼしたままにすべきと強く主張する。


「三銃士という物語からですわ。

 高貴な女性が豊かな胸の間に隠した証拠を下種な男がこれ以上なく興奮しながら提出するよう求め、あわよくば手を差し入れようと望む場面がありますの。ご存知ありませんか?

 あ、勿論我が主が下種でもしもべは一向に困りませんので」


 そこは『我が主が下種とは思っておりません』という所じゃないんですかねぇ。

 しかし三銃士? 国民性を知ってる人から九割がた嫌われるフランスのだよな?


「―――あ、ああ。あった。思い出しました。

 胸の間に隠しておけば、自分の地位と美貌により相手は躊躇して守られると思い込んだ挙句、手を突っ込まれそうになったら気色悪いと気絶しかける。

 そんな良識の欠片も無いフランス女らしい超自意識過剰で独善的かつ極まったアスペ思考の場面ですよね? 作者が男性なので更に穿ちようのある名場面でした」


 フランス人て歴史の何処を突いても良識が無いんだよな……。

 他国から来た平和の象徴の少女を虐めた挙句殺すし。サンゴ礁を核実験で吹き飛ばすし。


「まっ。酷い仰りよう。でも元が幾ら良識が無くても、少しお喜びでしたわよね?」


「……はい。少しは。確実に」


 それで良いのです。という笑顔をしおる。おのれぇ。


「しかし三銃士から発想してタブレットの胸挟みとは。古式ゆかしい……のかな」


 ラリッサ・リケルメとばかり。考えたらあんな流行ニュースが残る訳ないのに。


「うふふふっ。それでは全てが古式ゆかしいで終わってしまいますわ。

 さて、ヌシも去りましたし。戻ってお茶を。フランス式にアップルティーは如何でしょう」


「素晴らしい提案なのですが……香料付けるだけなのは余計な事に金かけてるみたいで嫌い。とか、申し上げても?」


 服として用を成さないゴミをファッションと言って大量に作り、捨てまくるフランスらしいお茶とは思うけど。


「勿論拝聴させて頂きます。ではリンゴのジャムをいれてに致しましょうか」


「あら美味しそう。期待させていただきます」



********


 フォロー、☆。更にはギフトまで下さった方々有難うございます。

 寒い季節です。どうかお体にお気をつけてお過ごしください。コロナも怖いのは変わってませんしね……。


********


 全く興味ねーよ。と、言われそうですが。

 この温泉文太は。うおおおお! 無理でも盛り上がったるわ! と、W杯の予想コラムなんて書きました。そして、その中で開催国であるカタールが16強に入る。と、書きました。


 開幕戦で負けました……。選手が皆、滅茶苦茶緊張してて、手がプルプルしてるくらいで、心壊れてて……、W杯開始三分で、ドーン! と書いた予想の崩壊する映像が。


 世の中こういうアホも居るんですよ。みたいな話です。

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