エスケープ・フロム・チキンフィード

有城もと

本文

 早朝、太陽が寝坊して外はまだ青白く、肌を撫でる空気は冷たい。

 しんとした台所に小気味よく響くまな板の音が気持ち良い。

 細長く切り揃えた胡瓜を、ゆっくりと竹輪の細い穴に通していく。

 胡瓜は大きすぎても入らないし、小さすぎても抜けてしまう。

 折らないように少しずつ、少しずつ。

「尋さぁ、竹輪だけとかワイルドすぎない?」

 記憶の奥で、彩花の笑い声がした。

 バイト先に持っていくお弁当を作っていると、いつも同じ事を思い出す。

 風の通り道になっている非常階段で二人、昼食を食べていたあの頃。冷蔵庫に入っていた期限切れの竹輪だけを学校に持ってきた私を見て、彩花は笑った。それから、ナイロン袋に無造作に詰め込まれた野菜スティックの中から胡瓜だけを拾い上げて、私の竹輪にねじ込んでくれた。唐突に料理っぽいものが出来上がって二人して大笑い。はんぶんこして食べたちくきゅうはびっくりするくらい安い味で美味しかった。

 自分だって野菜しか持ってきてないくせに人のことを笑う彩花はとても可愛くて、高校生のお腹には頼りなすぎる昼食でも私達は楽しかった。

 作り終えたお弁当をリュックの底に押し込んでから、大きな音を立てないように酒の空き缶や瓶を集めていく。そうだ、今日はゴミも出さなくちゃいけない。時計をみやって、少しだけ慌てる。

 膨らんだゴミ袋からは目に染みるような悪臭がした。私がやらなければ、母は絶対にゴミ出しなどしない。眼の前のゴミがどれだけ腐敗していても、自分には見えない。見ない人だった。

 分かってはいても、袋を縛る手に力が入る。少し大きな音が出たが、隣室から聞こえてくるいびきの方が明らかに大きい。あの音を聴いただけで、大体の飲酒量が分かる。どうせ昼過ぎまで起きるわけがなかった。

 目に見える所を時間の許す限り綺麗にして、家の中を振り返る。

 狭くて古くてヤニと油がこびりついた我が家。あちこちに開いた穴を塞ぐポスターも、今では黄色く濁っている。

 思い出したくないたくさんの事をすえた匂いで思い出させてくれる、憎らしい家。

「いってきます」

 耳障りな金属音が背中を押してくれた。

 玄関を出ると、雨粒のカーテンが世界を斜めに横切っていた。夜には止むらしいが、信じていない。私はここぞという日は必ず雨に降られている。人生なんてそういうものだと、割り切っている。

 どうにか傘を小脇に挟んで、細い階段を降りていく。いつもならすぐに着く一階が今日はやけに遠く感じる。何周回っても地上はもう現れない気さえする。吐き出す息は白いのに、首筋に汗が流れた。

 腕の痺れに耐えながらたどり着いたゴミ捨て場は既に山積みになっていた。

 カラスと野良猫に荒らされたのだろう、散らかった中身であたり一面ひどいにおいだ。殆ど意味のないびちょびちょのネットを捲りあげゴミを投げて入れて、汚れた手をスキニーデニムで拭いた。やっとまともに傘を持てる。ただ、もう身体の半分以上はびしょ濡れだった。。

「きみは、これから朝ごはん?」

 リュックを背負い直す私を、遠巻きから濡れ雑巾みたいな色のネコが見ている。

「だったら、うちのゴミは漁らないほうが良いよ。全部腐ってるし」

 ポケットに入っていたクッキーを一枚、猫の通りそうな軒下に置いた。

 帰り道に彩花と食べようと思ったけれど、私の分は、きみにあげる。

 たぶん、食べられないから。

 

 あと、十五時間。


 ・  ・  ・  ・  ・  ・

 

「うわ、もう十時……」

 布団を蹴り上げて、飛び起きた。

 午前十時十二分。一応、三回目のアラームが鳴る前に起きられた。寝付けなかった割には、上出来だ。

 大学までは自転車で二十分だから、午後の始業には最低でも十二時過ぎにマンションを出れば十分間に合う。といっても、お風呂とメイクの時間を考えたらいつもそんなにのんびりはしていられない。

 あぁ、もう。既に心臓が痛い。寒いのに緊張で手汗が出る。

 今夜、学校が終わったら尋に会えるんだ。

だから、絶対にいつもより気合を入れてメイクをしなくちゃいけない。

 髪を束ねて枕元のミネラルウォーターを口に流し入れる。飲み込みにくくておまけに冷たい硬水が、ゆっくりと喉の奥に落ちていった。美容に良いって聞いてからずっと飲んでいるけど、いつまで経っても飲み慣れないや。

 尋、早く会いたいな。私、頑張ったよ。

 昔からなんの自信もなんの取り柄もなかった私が変わったのは、尋に出会えたから。

 尋が居なければ私はきっと、自分の事も分からないまま今でもあの狭い家で縮こまってただ泣いていたと思う。

「また唇切れてるよ。リップいらずで、ラッキーじゃん」

 低くて、囁くみたいな尋の声がする。灰色と赤色以外何もなかった毎日で尋の透き通った瞳だけが光を放っていた。

 私にも尋のために出来ることがあるのなら。ずっと、そう思っていた。

 ベッドメイキングを簡単に済ませてから、バスルームの暖房をつける。温まるまでに顔を洗って、周囲にライトがたくさんついたお気に入りの女優ミラーの電源を入れた。

 真っ白な光を受ける、まだ眠そうな私の顔。

 口角を上げて、左右に顔を振る。紅茶色で光を弾く髪、長いまつげ、大きな瞳とぽってりした唇。これは、尋が可愛いと褒めてくれた、私の武器。

 肩書がJDになった一年の間、私はこの容姿に数え切れない物を、私に与えてくれた。

 ふわふわと温かいこのパジャマは課長の山本さんが。猫脚が可愛いテーブルはタクシードライバーの竹内さんが。毎日使うメイク道具は教頭先生の杉村さんから。物とは別に頂く"お手当"の半分は、家賃と学費と生活費に消えていった。お母さんに借りた引っ越し費用も、三ヶ月で返してやった。腕に残る赤い線も、今ではあまり増えなくなった。

 初めて尋に食事をご馳走した時、尋は大学に入ってこのバイトを始めた私をとても心配してくれた。それだけじゃなく、せっかくの包み焼きハンバーグを放っておいて、少しの間だけ叱ってもくれた。

 ずっと難しい顔をしながら、私を一度も否定しなかった尋。それがすごく嬉しくて、静かに泣いてしまったのをずっと覚えてる。

 結局、頑固な尋が奢らせてくれたのは、その時一回だけだったけど。

「あ、やば」

 気付けば随分ぼうっとしていた。服を脱ぎ捨てて浴室を開けると、汗をかくほどの熱気が溢れてくる。また少し、緊張でお腹が疼く気がする。

 メッセージを一通送信してから、スマホをタオルの上に放り投げた。

「おはようございます、今夜はよろしくお願いします。楽しみです」


 あと、十時間。

 

 ・  ・  ・  ・  ・  ・

 

 一時間、九百八十円。それが今の私の値段。別に、不満はない。

 身体を動かしている間は余計な事を考えなくて済むし、なにより自分の価値をよく分かっているつもりだった。

 午後六時過ぎ、もうすぐディナータイムだ。夕方の厨房は瞬きをするのも惜しいくらいに忙しい。調理して、提供して、洗って、また調理して。永久に終わらないループを繰り返す。その下準備として、私は両手でただひたすらに卵を割り続けていた。

 鶏が産む卵は、一日に一つだけらしい。

 狭い檻の中与えられる餌だけを食べ続けやっと産み出した卵は、一つたりとも彼女たちの手には入らない。飛ぶ事も、逃げる事も出来ないままただ消費されていく。身を痛めて作ったものを、勝手な都合で取り上げられて、無用になった羽根を打つこと無く、死んでいく。きっと、悔しいに違いない。私なら、耐えられない。

 巨大なボウルに溜まっていく黄色い目玉が、ぶるぶると震えながら私の事をじっと睨んでいる気がした。

「尋ちゃん、来月のシフト、もう出せそう?」

「いや、まだちょっと分からないです」

「そっか、分かったらすぐ教えて。あと、今日どうしてもラストまで無理かな」

「はい、今日は……」

 今夜、彩花に会えるのをずっと楽しみにしていた。いや、待ち焦がれていた。正直、バイトなんてどうでもいいくらいだった。けれど、私達以外の人に迷惑をかけるのは、嫌だった。

 シンクの底で山積みになった殻を、ボウルで細かく砕いていく。ざりざりした音と感触が。少しだけざわつき始めた胸を鎮めてくれた。

 高校を卒業してからの一年間、私は毎日の様に働いた。

 いつかこの街を、あの家を出るために。

 何処へ行くかなんて決めていなかった。何処かへ行くことだけを、決めていた。

 彩花は自分の家に住めばいいと言ってくれたし、実際、逃げるように泊まりにいくこともあった。

 それでも、私はせめて自分の力だけであの家から抜け出したかった。

 だから、働き続けられた。私には、それしか出来なかった。

 今、彩花はどうしているだろう。考えると、心臓の芯がぎゅっと捻じれる。

 自分が女であることの全てを、自分の力に変えて生きている彩花。

 大切で、唯一な私の理解者。

 彩花には本当に感謝している。

 今日がやってきたのは、全て彼女のおかげだった。

 私の無茶な願いを聞き入れ、自分の身を晒して一生懸命に努力してくれた。そのおかげで、見つける事が出来た。

「尋ちゃん、尋ちゃん! もういいからホール清掃お願い」

 店長の声に顔を上げる。シンクの中で殻はもう粉のようになっていた。

 ホールに出ると家族連れで満員だった店内は一瞬の凪状態だった。机の上に放置された食器を片付け、綺麗に拭き上げていく。ふと気がつくと、広い店内の片隅、トイレ前の席で中年男性が一人、食事をとっていた。

 あまり綺麗ではない服装で、一番安い定食をゆっくりと噛み締めている。後ろ姿は、照明が消えているのか確認するほど薄暗かった。

 同じ年頃の男性を見ると、どうしても比較してしまう。

 どんな人よりも、もっともっと、限りなく悲惨で惨めで不幸になって欲しい、と。

 時間が過ぎていくにつれて、胸の底に黒い液体がたまり続けていく。仕方ない。もういいんだ、溢れてしまっても。

 私が厨房に戻るのとほぼ同時にやってきたピークタイムは、この店で働きだしてから一番忙しかったかもしれない。

 台風が過ぎ去った狭い厨房の中、いくらか残る注文のために店長はまだ鍋を振るっていた。

「お先、失礼します」

 聞こえたのかどうか分からないが頷いたように見えて、私は深く一礼してから店を後にした。

 雨はまだ止んでいなかった。


 あと、三時間。


 ・  ・  ・  ・  ・  ・


 マネキンが立ち並ぶショーウィンドウに映る私の歩き姿は、完璧に可愛かった。

 白いトップス、甘すぎず可愛いツイードのセットアップ。斜めがけにしている黒いバッグは誰でも知ってるキャビアスキン。

 足元はお気に入りのブーツで、ちらりと覗く脚も程よく色気がある。

 緩く巻いた髪とこだわり抜いた前髪の透け感はばっちりで、ジャケット姿で現れた鴨居さんは会うなり使えるだけの言葉を使って褒めてくれた。

「あやみちゃん、本当に可愛いなぁ」

「ほんとですかぁ? 気合いれちゃったんですけど、変じゃないですか?」

「最高だよ、どこ連れて行っても安心だよ」

 鴨居さんは丁度一ヶ月前に顔合わせをして定期的な関係を約束してくれたパパだった。

 お手当は、一回のデートにつき三万円。

 正直、自分の相場からすれば倍は欲しいところだったけど、鴨居さんは特別だから仕方なかった。

 プロフィールにジムトレーニングが趣味とあった通り、鴨居さんの身体はまるで太い木みたいだった。ジャケットははち切れそうになっていて、短く刈り込んだ髪の隙間から汗が光っている。仕事の内容は詳しくは教えてもらえなかったけど、どこかで聞いたことがある会社の役員をしているらしかった。

 聞けば聞く程すごい人で、忙しくてお金を使う暇もないとか、有名人や芸能人に知り合いがたくさん居るとか、信じられないような世界の話しをたくさん聞かせてくれた。

 流石ですね、知らなかった、すごいですね、センス良いですね。私は相槌のさしすせそをフル活用して、全部に大きなリアクションをした。

 でも、最後の一言だけは言わなかった。

 それが全部本当ならね、って。

「今日はどこに連れて行ってくれるんですか?」

「どこって、今日はもう何するか決まってるだろ?」

「あはは、そうでした。初めてだから、緊張しちゃって」

「初めてでもまかせてくれたらいいから、な」

「はい! 大丈夫です。全部、任せてますから」

 充血した眼。皺がたくさん浮く満面の笑み。自然と腰に手を回されて、雨の中を歩きだす。大げさな香水の匂いに混じって、汗と煙草ときついアルコールの匂いがした。

 いくつかのアーケードを抜けて向かう先には、きらびやかなホテルの看板が頭を覗かせている。

 密着する私達に、道行く人々が隠すことなく視線をぶつけてくる。もう慣れたけど、私と会うおじさん達は決まって密着して歩きたがった。たぶん、若い女の子を連れて歩いている事を自慢したいんだと思う。それに見合ったものを支払った権利として。

「やっと出来ると思うと、興奮してきた。十回くらい出来ちゃうかも、なんてな」

耳に生暖かい吐息がかかる。分からないように、少しだけ身を離す。

 一回、十万円。先払い。それが私の初めてにつけた値段。

「鴨居さん、どうせなら行ってみたいホテルがあるんだけど、いい?」

「お、積極的だなぁ、いいよ、どこのホテル?」

「えっとね、ちょっと離れるんだけど……こっちこっち」

 スマホで地図を見るふりをしながら、男の手を引いた。

 もうすぐ滅茶苦茶になるのに、不思議と緊張はしていなかった。

 それよりも、やっと会える。その嬉しさの方が強かった。

 雨粒を弾く水たまりに夜の灯りがきらきらと反射して、綺麗。

 人通りが少なくなってきた。目印の高架下が、すぐそこに見える。

 尋、私頑張ったよ。


 あと、少し。

 

  ・  ・  ・  ・  ・  ・


 途切れないため息のような雨音が辺りを包んでいる。

 吸い込む空気は冷たくて、うちのゴミ箱みたいな匂いがした。

 落書きだらけの柱にもたれかかったまま、届いたメッセージを見返す。

「もう、つく」

 ずっと眼を閉じていたせいで、画面の灯りが眼に染みる。

 ごめんね、彩花。彩花が引き受けてくれた事を思うと情けなさで鼻の奥が熱くなってくる。

私にもっと考える頭があれば良かったのに。それなら、彩花を困らせることもなかったのに。指先の震えを寒さのせいにしてしまいたい。

 ただ、平穏に暮らしたいだけだった。それなのに、どうしてここに居るのだろう。

 金をせびり女を買うような男が、再婚相手でなれなければ。

 酒に溺れ娘の金を勝手に使う女が、母でなければ。

 男を惑わす花のような少女が、心からの友でなければ。こんなことには。

 溢れ出した感情で叫びだしそうになった瞬間。

「おいおい、こっちは何もないって、戻るぞ」

待ち望んだ聞きたくもない声が聞こえてきた。

「えーあってるよ絶対。私とお散歩、やだ?」

「それはいいけどな、ほら、もうここがな、我慢がさぁ……」

 汚い獣のような男が彩花に触れている。彩花の手を握り、汚い顔を近づけている。

 冷え切った身体に火がつくのは、一瞬の事だった。

 背筋が泡立ち、私は物陰から弾けるように駆け出した。足がもつれて転びそうになっても、視界の中には彩花とあいつしかなかった。

 彩花の叫び声で男がこちらを向いた瞬間、私は握りしめた木製バットを顔面に振り下ろした。

 雨粒まで全部はっきり分かるくらい、世界がスローに見える。

「うぐぅう」

 うめき声と共に、バットは想像していたよりずっと気の抜けた音を響かせて私の手から滑り落ちた。顔面を抑えてうずくまる男を見下ろしながら、浅い深呼吸を繰り返す。

「あっ、彩花にまで……さわんな、クソ、クソ‼」

 彩花は口を両手で塞ぎ、その場にへたり込んでいる。

 驚かせてしまってごめん、彩花。

 止めどなく湧き上がる憎悪の渦で、爪が手のひらにみしみしと食い込む。

 それでも力を緩められない。地肌が透けて見える後頭部を何度も何度も踏みつける。くそ、くそ、許せない、許せるわけがない。

「返せよ……全部返せよ、お前が使ったの、母さんと、私の金だろ、全部、全部っ! 彩花にさわんな豚! 死ね、死ねよ! なんのために……なんのために毎日毎日、毎日毎日毎日‼ クソ‼」

 喉が焼ける。顔が燃えて、自分の叫びに鼓膜が張り裂けそうだ。

 空になった通帳取り出して投げつける。男は頭を抑えたまま動かなかった。

「尋! 死んじゃうよ!」

 立ち上がり、飛びついてきた彩花はがたがたと震えていた。

 強張った両腕から少しずつ力が抜けていくのを感じる。

 肺いっぱいのドブみたいな空気が、彩花の甘い香りで押し流されていく。 

「彩花、彩花、ごめん、ごめん私、ほんとに、こんな」

「いいよもう、ばか、バットなんて何処で……」

 震える彩花の肩を抱きしめてやっと、私は自分も震えていることに気がついた。

「尋のお金、私少しだけど取り返したよ。だからもういいよ、頑張ったよ、もういいよ……」

「そんな、頑張ってくれたのは……」 

 乱れた髪に顔を埋める。柔らかくて、良い香り。なんだか、もう、全部どうでもいい気がしてしまう。自分のちっぽけなプライドも、母への同情も、何もかも。

「私の家で一緒に暮らそうよ、尋。もう逃げてもいいよ、助けさせてよ」

「彩花……」

 眼を閉じようとした視界の端で、丸い影が左右に揺れながら起き上がった。

「お前、尋か……なんのつもりだお前、親を、こんな、クソ、殴りやがって……」

 片手の隙間から見える血まみれの顔面は怒りで膨れ上がって、睨まれただけで足がすくむ。

 幼い私と泣きわめく母を怒鳴りつける、あの声。

「グルだったんだな、どけこの売女が! なにが処女だなにが十万だボケ舐めてんのかぶち殺すぞクソガキが!」

 胸にくっついてたぬくもりが消える。そして、彩花は悲鳴をあげて地面に倒れ込んだ。

小さな鞄の中身がアスファルトの上にきらきらと散らばっていった。

 こいつ、彩花を、殴りやがった。冷えた身体にまた火が灯った。

「お前、お前こ」ろしてやる、とは言えなかった。眼の前の汚い顔が消えて、目の奥に火花が散る。一瞬で自分の顔が温かい液体塗れになる。髪を引っ掴まれて、顔を上げられる。直後に頬を横薙ぎに、もう一発。そうだ、こいつは女を殴るのに一切躊躇なんかしない、クズで最低のクソ野郎だった。

 喉の奥に流れ込んできた血で咳が止まらない。熱い、苦しい。

 彩花、彩花は。

「この恩知らずめ、お前の馬鹿な母親――拾って――だろうが! それともなんだ、あァ? 嫉妬してんのか? また――れたいのか? 謝ったらな、――――してやるよ、なぁ。くそ、あぁ痛え、くそ、身体だけは――なり――って」

 身体をまさぐられている事と、何か私が逆上するような事を言っているのは分かる。ただ、何回目かのビンタで片耳は殆ど聞こえていないし、腫れ上がった瞼で前もよく見えない。それなのに彩花が私を呼ぶ声だけは、はっきりと聞こえた。

「触んな、尋に触んな‼ さわんなっていってんだろ、離せよゴミクズ‼ 気持ち悪いんだよ、ずっと‼ うわあぁああああ‼」

 糸が切れたみたいに、私は倒れ込んだ。アスファルトの冷たさを頬に感じる。

 薄眼を開けると、彩花が腕をめちゃくちゃに振り回しながら叫んでいた。

 まるで、夜に噛みついているみたいだった。

「うわ、や、やめろ! 気狂ってんのかお前!」

 あいつは少しずつ後ろに下がりながら、そこら中から血を溢れさせている。

 彩花、一体、何して。

「また尋に触ったら、絶対に、殺す! 絶対に私が殺してやるから‼」

 振り上げた彩花の手には、細い腕には全然似合わない大振りな出刃包丁が握られていた。上に下にと走る刃先が、暗闇の中でひときわ眩しく見える。

 馬鹿、あんただってそんなもの、何処で。

「もうやめろ、や、やめてくれ!」

 グレーのジャケットは切り裂かれて、そこら中が黒く染まっていく。

 彩花。本当に死んじゃうよ、彩花。もう、いいよ。もういいから。

「やめるわけないだろ! 尋は、友達なんだよ、同じなんだよ、だからもう近づかないでよ! お前なんかが尋にさわんないでよ! さっさと消えろよ!」

 そして、よろめきながら、叫びながら。男が一人暗い街の奥へと逃げていった。

「は、はは、あはは……」

 可愛い可愛いお花みたいな女の子に負けて走り去る後ろ姿。なんだか笑えてきた。

 ざまぁ、みろ。

 お前、今この世で一番、ださかったよ。

「尋、ひろぉ、大丈夫? ねえ、ねえってばぁ」

 駆け寄ってきた彩花が、せっかくのお化粧をぐじゃぐじゃにして泣いている。

 おまけに、眼の前でケチャップが爆発したみたいに赤く汚れている。

 もったいない、せっかく可愛い顔なのに。でも嬉しい。

 彩花が、私を見て泣いている。

 泣きながら、笑っている。

「うわぁ、顔ぐちゃぐちゃじゃん、汚いなぁ彩花」 

「うるさい! もうなんで笑ってんの信じらんないこいつ!」

 ねぇ、彩花。

 私達の背中には、どうして羽根が生えてなかったんだろうね。

 何処へも行けないように、神様が千切って捨てちゃったのかな。

 でも、飛べないのなら、歩いていけばいいよね。

 遠くたって、何処へだって。

 

 もう、終わり。


 ・  ・  ・  ・  ・  ・

 

「これでちゃんと火つくかな」

「ちょっと尋座ってなって私がやるから」

「そっちだって顔めちゃくちゃのくせに。お互い様だよ」

「ほんと、まじで最悪。傷残んないといいなぁ」

「大丈夫、傷があったって彩花は可愛いよ」

「あはは、尋は傷があるくらいがワイルドでかっこいいよ。バット女だし」

「うるさいな、最後の全財産で買ったんだよ。そっちこそ包丁とか、死んでたらどうすんのさ」

「自分だってフルスイングしたくせに! じゃあ、逆だったらどうしてた?」

「逆って、そんなの」

やるに決まってる。息をするくらい、当たり前の事だった。

 誰も居ない、河川敷の橋の下。どうにか動けるようになったあと、適当に歩いてここにたどり着いた。お互いぼろぼろで、支えながらしか歩けないくらいだった。

あの後、あいつがどうなったのかは知らないし、お金だってきっと戻ってこない。でも、もうどうでもいい、私が捕まるなら、別にそれでもいいんだ。少しだけ、何かが変わった気がするから。

「これくらいでいっか、つけるよ」

「なんでライター持ってるの?」

「お客様用。もう、いらないけど」

 焚き火を作ろうと二人で集めた廃材を転がっていた大きな缶に放り込んで火をつけた。所詮落ちていたゴミだからうまく燃えず、まともな火になるまで何度も繰り返すはめになったけれど、楽しかった。

「あぁ、温かい……風邪引くとこだった」

「尋は明日病院行ってね、絶対」

「それは彩花もね」

 なんとなく、何を話せばいいのか分からなかった。

 あるのは少し水かさの増した川の流れと、時折爆ぜる炎の音だけ。

 並んで座るお互いの呼吸すら、聞こえてきそうな夜だった。

「ありがとう、彩花」

「いいよ、全然。父親とパパ活してって言われた時はびびったけどね、意味不明だし」

「ごめん、だって、彩花にしか頼めないし、彩花しか居なかったから……」

「あ、そうだこれ、びしょびしょだけど」

 彩花はバッグから茶封筒を取り出して、顔の前で泳がせた。

「貴重な私の処女代十万。と、今までのデート代。これで全部じゃないと思うけど」

「え、でもそれは彩花が」

「か、え、す。大丈夫、私はまだ綺麗な身体のままだし」

「……ありがとう」

 また、しばしの沈黙。

 すると、急に彩花が立ち上がり、着ていた服を脱いで、炎の中に放り込み始めた。

「ちょっと彩花、なにして」

「なんか、いらなくなっちゃった! これ、前のパパに買ってもらった服。これもいらない。これも。バッグも、化粧品も、全部いらない! 燃えろ燃えろ! うわ、さっむ!  やばいしぬしぬくっつかせて!」

 下着姿になった彩花は全身をさすりながら、私に冷えた肌をぴったりとくっつけた。その表情はやけに晴れ晴れとしていて、見ているこっちが笑えてくる。

「ほんと、なにやってんの」

「なんか、全部いらなくなっちゃった。あれは、私じゃないし」

「すっきり、した?」

「うん」

 一瞬だけ考えたけど、どうせなら。

「え、ちょっと尋、何やってんの!」

 私も彩花と同じ姿になって、脱いだ服を全部放り込んだ。どうしてかは、分からない。たぶん、同じが良かったんだ。

 殴られて火照った傷が夜風で冷やされて気持ちがいい。

 私達はお互いの下着姿に、大笑いした。涙で顔が全部濡れてしまうくらい、大笑いした。

 それから、一度だけキスをした。血と、涙の味だった。

 二人共、そうするのが決まっていたみたいな、キスだった。

「ねえ尋、これどうやって帰る? やばいよね」

 温かい沈黙のあと、先に口を開いたのは彩花だった。

「あ、私いいもの持ってるよ」

 リュックから取り出したのは、バイト先の制服。今日が掛け持ちの日でよかった。少しだけ雨が染みているけれど、さっきの服よりはずっとマシだ。

「うわ、私コンビニの制服初めて着た! 可愛い!」

「彩花も一緒に働く?」

「尋と一緒だったらやってもいいかも?」

「ちゃんと働かないと、私彩花の分までは稼がないから」

「ひっど、いいよ、家入れないから」 

 夜がこんなに柔らかいのは、初めてだった。

「ねえ、彩花」

「なに? 尋」

 

 二人なら、きっと、何処へだって。


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エスケープ・フロム・チキンフィード 有城もと @arishiromoto

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