第七章 執着
第百一話
『一体何をした?』
『君は君じゃないのか』
それはあまりに不可解な質問だった。
「な、何の話だよ……意味分かんねえって」
しかし
その黒い瞳は目の奥を覗き込んでくるようで、馨にとってひどく居心地の悪さを覚えるものだった。
張り詰めた沈黙。
やがて胸倉を掴む彼女の手がわなわなと震え始め、一体何事かと馨が狼狽えていると、
「駄目だ。やっぱり『みえない』」
彼女は突然そう言い放ち、馨の服からぱっと手を離した。
そして荒々しく元いた場所に座り直し、額に手を当てて項垂れる。かなり疲弊しているように見えるが、馨には何が何だか分からなかった。
「お前、さっきから何なんだよ」
「恐らくまだ彼は彼自身だ……でも縁ができている可能性は高い。『みえない』のがその証拠だ。でもなぜ? 恐らくあれが解かれているのだろうけど、ならば故意にやった人間がいるはずだ……じゃないとこの早さはありえない。犯人は彼なのか、別の誰かか……」
累は馨を無視し、尚も異様なことを呟いている。
しかし馨の中では驚きや恐怖よりも、説明されないことへの苛立ちが勝っていっていた。
「おい! 無視すんな。何なんだって聞いてんだろうが」
湧き上がる感情のままに声を荒らげる。
すると累は徐に顔を上げ、馨を見つめた。前髪の隙間から覗く額には、なぜか汗が浮かんでいた。
「今の君にできる話は一つもない」
「は……? 一方的に訳分かんねえこと聞いといて何言ってんだよ。馬鹿にすんのも大概にしろ!」
「馬鹿にしているわけじゃない」
「じゃあ何だってんだよ?」
「状況を悪化させないためには、こうするしかないんだ。苦しめるつもりは微塵もない」
その態度は、父が車の中で取っていたものと同じに見えた。
除け者にしているだけでなく、後ろめたさの滲む表情。
彼らは裏で示し合わせて何か企んでいるのか?
しかし考えても分からない──何も知らないのだから。
空港で叔父に話をはぐらかされた時に抱いた、言いようのない孤独と寂しさ。
父が電話口で発した言葉に覚えた恐怖。
この瞬間も膨れ上がっていく苛立ち。
全て何年も前からずっと、感じるたびに押し殺していた感情だった。
気がつけば、馨は握り締めた拳を厚い木製のテーブルに叩きつけていた。
突然の振る舞いに自分でも内心驚く。
しかしなぜか手の痛みは感じなかった。
「もううんざりだ……! お前だけじゃない、父さんも母さんも姉貴も、
「落ち着け。興奮するな」
「うるせえ! 全部お前らのせいだろうが! 俺は昔からずっと──」
そこまで言いかけた時。
突然、視界がチカチカと瞬き始めた。
反射的に天井を見上げると、丸型の蛍光灯が木枠の中で激しく点滅を繰り返していた。
まるで昂る感情を煽り立てるように。
馨がそれに構わず尚も罵倒しようと彼女を睨むと、
「待て」
彼女は掌を前に突き出して一言そう言った。
馨はなぜか一瞬口を噤んでしまった。半ば無意識に、そうしなければならないような気がしたのだ。
「予想よりも事態は深刻だ」
彼女の額から汗が流れ落ちてくる。
「あ? まだ訳の分かんねえこと──」
「だけど、その縁ができてしまった原因を知ることができれば、明日のシラハオリでどうにかできるはずだ。今、多少の危険を冒したとしても」
累は伏せていた視線を上げ、再び馨をじっと見つめた。
「特別に……君には少しだけ事情を説明しよう。その代わり、私からの質問に答えてもらいたい。いいな?」
蛍光灯の明滅が、ぴたりと止んだ。
◇
馨はさほど迷わずに累の出した条件を呑んだ。
勿論何らかの不利益を
彼女は息を吐き、居住まいを正す。
そして険しい表情を保ったまま言った。
「それじゃあ、事情を説明するところから始めよう」
口調は先ほどよりも柔らかくなっていたが、眼光の鋭さは一向に変わらなかった。
「まず、毎年行なっているシラハオリとは……簡単に言えば『守る』ための儀式だ」
「……守る? って、何から」
「それは言えない」
「は?」
「名を明かしてしまっては、守りきることができなくなる。……ネット掲示板の怖い話に出てくる『寺の住職』みたいに、何でもかんでも懇切丁寧に解説してくれると思ったら大間違いだよ」
「……。ああ、そう」
彼女の言い草は腹立たしかったが、一々目くじらを立てていては話が進まない。馨はそれ以上何も言わなかった。
「シラハオリは例えるなら……パソコンのファイアウォールやセキュリティソフトみたいなものだ。不正な干渉を防御したり、侵入した穢れを探し出して浄化する役割がある。……通常はそれで何とかなる。事実、長い間ずっと、それだけで平穏が保てている。……」
そこで彼女は言葉を区切り、一瞬苦しげな顔をした。
しかしすぐに無表情に戻って口を開く。
「だけど〈アレ〉は、名を知ってしまったり、知った上で頭の中で思い浮かべただけで、縁ができてしまう。既に成人している人間なら、それをシラハオリで断ち切ことができる。けれど……もし『成人前の人間』が〈アレ〉の名や存在を認識して縁ができてしまったら、もうどうにもならない。
──その者は必ず命を落とす」
「……!」
馨は彼女の言葉に耳を疑った。
あり得ない。そんな話が現実にあるわけがない。
心のどこかでそう思いながらも、戦慄せずにはいられなかった。
「ちょっと……待てよ。なんで、そんなものと俺らが関わってるんだよ」
咄嗟に浮かんだ疑問を投げかけたが、累は首を横に振る。
答えられない、ということなのだろう。
苛立ちを覚える一方で、馨は少し安心してしまっていた。知るのが恐いと本能的に思ってしまったのだ。
「君は昔よく、親御さん達にシラハオリのことを尋ねて『二十歳になったら教えるから』と言われていなかったかな」
「! ……それって」
「そう。教えてしまったら最後、君は死んでしまう。だからそれを防ぐために、皆堅く口を閉ざしていたんだよ」
両親や姉、親族にしつこく縋った子供の頃を思い出す。
大袈裟に叱る者、引き攣った顔で黙る者、目を合わせず笑ってはぐらかす者。
皆その心の中には恐怖を抱えていたというのだろうか。
無邪気に禁忌へ関心を寄せる幼い子供が、真実を知って命を落としてしまうかもしれないという恐怖を。
「厳密には、口にしても平気な内容もある。今私が君に話しているのがその証拠だ。けれど、その程度や線引きは普通の人間には極めて難しい。……だから不慮の事故を起こさないためには、こうするしかなかったんだ」
馨は何も言えなかった。
自分がこれまで何一つ真実を教えてもらえなかった理由がやっと分かったというのに、どんな感情や意見を持てばよいのか判断がつかなかったのだ。
嘘か真かの見極めもできず、彼女の言葉がひたすら頭を駆け巡る。
「
「なんで……なんで、それだけで殺されるんだよ? 何も悪いことなんかしてねえのに」
「……。この世のあらゆる事象を、全て人間の道理だけで説明できると思うな。これはもうそういうものとして、受け入れるしかないんだ。私達にできることは、先代達の残した記録に従いながら、自分達を守っていくことだけ」
彼女の台詞は馨の中にとても残酷に響いた。
漠然とした絶望が身体に纏わりつくようだった。
「さて、馨くん。私の話はこれで終わり」
「……」
「残りは来年の誕生日が来たら教えてもらえる。それに次は、君が答える番だ。あまり時間がない」
思考が追いつかない馨を気に留めず、累は話を進めていく。
テーブルの下で何やら風呂敷を解いているようだが、そんなことはどうでもよくなるほど、馨は悪寒を覚えていた。
「始める前に、一つだけ伝えておくことがある。落ち着いて、静かに聞いてほしい」
彼女は右手を掲げ、馨の胸の辺りを指差した。
「君は〈アレ〉の名や存在を知らないにも関わらず──
既に通常ではあり得ない濃さで、縁ができてしまっている。
その原因を探るため、そして君を守るために、今から尋問させてもらう」
───────
❀お知らせ❀
次回の更新は以前近況ノート等でお知らせした通り、
私用のため【12月4日(水)】となります。
何卒宜しくお願いいたします。
このたび連載2周年を迎えました。
いつも沢山の応援をありがとうございます。
これからもよい作品を作っていけるように、日々邁進いたします❀
香(コウ)
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