第百二話
「ま、待て。『縁』ができてるって……じゃあ、俺は死ぬってことかよ?」
「今ならまだ、ただちに命を落とすということはない──かもしれない。君は〈アレ〉の名前までは知らないから」
「かもしれないって何だよ、はっきりしろ……!」
「前例がないんだ、断言はできない。今分かっているのは、一刻を争う事態だということだけだ」
到底すんなり受け入れられる話ではなかった。しかし、彼女がわざわざここまで嘘をつきに来る意味があるとも思えない。
酷い寒気が一層強まり、嫌な耳鳴りが聞こえる。
それは『死』というものを恐れたからなのか、はたまた別の何かを予感したからなのか。
「では始めよう。思い出せる限り、詳細に答えてもらう」
累はそう言って三白眼で無表情に馨を見つめた。
「まず、昨夜。
「き、昨日の夜?」
なぜそんなことを聞くのか、と馨は激しく困惑した。
同時に
「……その時は、風呂に入ってた」
それは嘘ではない。
累は視線を逸らさないまま眉根を寄せた。
「風呂? 一人で?」
「そ、そうだよ」
「……。その時、何か妙なことは起きなかったか?」
「別に何も──あ」
不意に脳裏をよぎる、バスルームの白い床に落ちた鮮血。
単に
報告すべきか迷っていると、累は少し身を乗り出した。
「些細なことでも構わない。言いなさい」
「た、ただ
「……鼻血? ……急激な負荷がかかったのか……」
そして数十秒の間考え込んだ後、口を開く。
「風呂の前は? 何をしていた」
「えっ、その前は……」
馨は累から目を逸らした。白状したくない、というのが本音だった。
理由は気恥ずかしいからというだけではない。ああいった類の営みは、自分と千恢にとって
そもそも、その行為が今の事態と関連しているとは思えない。
「別に、テレビ観たりしてただけ。軽く運動……したような気もするけど」
「……」
累は返事をせず、再び考え込む素振りを見せる。
その沈黙の間に何か悟られやしないかと不安になり、馨は言葉を発した。
「つーか、なんで父さんが俺に電話したの知ってんだよ?」
「知っているも何も、電話するよう指示したのは
「は? なんで──」
「今は私が質問する番だ。口を挟むことは許さない」
「……」
先ほど一旦鎮めた苛立ちがまた少し沸き上がるが、何とか堪えた。
「では、次の質問だ。君は大学に入ってから……妙な夢を頻繁に見ていないか?」
「! 回数はそこまで多くないけど、たまに気味の悪いのは」
「どんな夢か覚えているか?」
「……女が出てきた。場所は──ここの離れにある部屋だった」
一番記憶に新しいのは、空港で見た夢だ。
掛け軸が飾られた床の間と花木が描かれた襖。
陰気な照明。
あれはこの家の離れにある部屋だった。
ここで彼女が言及するということは、あの夢は無害なものではないのだろう。
馨は不安を押し殺して次の問いかけを待った。
「女は何と言っていた?」
「……確か『はやくおいで』って」
「その夢を見たのはいつだ?」
「今日、こっちに来る前に空港で」
「女の顔は見たか?」
馨は彼女の質問に頷いてから、首を捻った。
「見たことのある奴だった気がする。けど……誰かは分からない」
「そうか。その前にも妙な夢は見たんだな?」
「……多分、何度か。でも、全部意味不明だった」
馨はそこでふと、夢に出てきたあの女が自分達を脅かしている存在そのものなのではないかと思い至った。
全く何の根拠もないが、突然そう感じた。
「なあ。もしかしてその女、お前が言ってた──」
「余計なことは口にするな。守りきれなくなる」
累は間髪入れずに遮ってくる。
その言動から、馨は自分の憶測はあながち的外れではないかもしれないと思った。しかし彼女の言っていることが本当なら、こうした認識をするだけでも縁は濃くなってしまうのだろうか。
突然、累が懐からスマートフォンを取り出す。
彼女は画面を手早くタップし、本体を耳に当てた。
「兄さん、聞こえてる? 私一人じゃ抑えきれないかもしれない……そこからでいいから、手伝って」
よく見ると彼女の手は小刻みに震えている。
その様子は、馨の目に恐ろしく不気味に映った。
一体今ここで何が起こっている?
訳も分からないまま、ただ曖昧な恐怖が静かに躙り寄ってくる。
「では──次の質問だ」
スマートフォンを床に置き、彼女は感情を抑えるような低い声で言った。
「最近他人に過剰に執着されると感じたことはなかったか?」
「……執着」
「そうだ。やたらと君に拘る人間はいなかったか?」
馨は心臓が激しく動悸し始めるのを感じた。
その指摘には、大いに心当たりがあった。
無関係だったはずの事象が次々と繋がっていってしまいそうな気がして、恐ろしくなる。
『──〈君の纏ってる、見えない何かに本能的に惹き寄せられた〉って感じがして』
千恢の言葉がどこかから響いてくる。
彼女が言ったように『他人を惹きつける超常的な力』が、自分の中に実在しているのだろうか?
それは突拍子もない冗談のはずだったのに。
単なる愚かな自惚れだと流してしまいたかったのに。
眩暈に襲われ、視界が回り始める。
守りきれなくなる──そう言われたばかりだったが、馨は意を決して訊ねた。
「それって……俺が何かそういう、人に興味を持たせる力とか性質を持ってる、ってことだったりするのか?」
「……なぜ、そう思った」
累の表情に一瞬だけ動揺が浮かぶ。
まるでその反応が答えのように思えて仕方がない。
「友達と、そんな話になったんだよ。俺が異常に好意を向けられたり、先輩に目をつけられたりするから、おかしいんじゃないかって。なあ、どうなんだよ? それぐらい答えろよ」
「……」
累は眼光鋭く馨を見据えていたが、ふと諦めたように嘆息した。
「『他人を惹きつける力』か……それなら良かったのにね」
「え? 今、なんて──」
「残念ながら、君にそんな力はないよ」
彼女の声はひどく陰鬱なものだった。
馨は、この荒唐無稽な力の存在を誰かがはっきり否定してくれるのを確かに待ち望んでいた。
しかしこれは、望んだ形の否定では全くない。
急激に手の指先が冷えていく。
またしても、照明が激しく点滅し始めた。
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❀お知らせ❀
読者の皆様、いつも暖かい応援をありがとうございます。
最新話、大変お待たせいたしました。
今回の分の近況ノートは明日投稿いたします。
どうぞ宜しくお願いいたします。
香(コウ)
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