第九十九話

 空港を出発してから約30分後。

 依然として静まり返っていた車内に、突如聞き慣れない電子音が響き渡った。

 見ると、運転席と助手席の収納に二つ折り携帯──いわゆるガラケーが置いてあった。会社用だろうか。

 点灯するディスプレイには「緊急連絡・カ」と表示されている。


 代わりに出るべきかとけいは悩んだが、そうしている内に父はさっと携帯を取ってしまった。

 左耳に当て、片手で運転を続けながら応答する。


「はい、一花いちはなです。……ええ、今そちらに向かっています」


 相手が誰なのかは推測できなかったが、緊急連絡用の番号にしては彼の声音は淡々としていた。

 顔つきからも感情は全く読み取れない。

 

 しかし馨が横目で見ていると、彼の表情は徐々に怪訝そうに歪んでいった。


「いえ、一緒におります。何事もなければ30分ほどで着きますが──え? 『みえない』?」


 彼はそう言った後、馨に一瞬だけ視線を向けた。

 微かな動揺か怯えのようなものが、その瞳の奥に見える。

 誰と何の話をしているのかは分からない。

 しかし馨は妙な胸騒ぎを覚えた。

 

「なら尚の事、まっすぐそちらに伺った方が安全なのでは──……そうですか、分かりました。では私どもは、祖父の家で待ちます」


 父は通話を切り、携帯を収納に戻した。表情は険しいままだ。

 再び車内に静寂が訪れる。

 まるで電話などなかったかのような空気に、馨は少なからず困惑していた。

 ──今の話は何だったのか。

 自分やそうに無関係なのかすら分からない。

 不安を煽るような内容を聞かせておいて黙っている父が、あまりに無神経に思えた。


 腹立たしさが募って一言物申そうとしたとき、


「兄貴。今の電話……やっこさん何て言ってたんだよ」


 今まで同じく沈黙していた創が、不意に訊ねた。

 それに対し父は、渋い顔で間を置いてからやっと口を開く。


「やはり何もらしい。準備をしてから後でうちに来ると言っていた」

「家に来て、どうするつもりだってんだよ?」

「……。訊く必要のない質問をするな」

「!」


 衣擦れの音と座席の揺れで、創が座席から身を乗り出したのが分かった。


「兄貴、こんなやり方やっぱりまともじゃねえよ。俺らが自分達でやってやりゃ、傷つけないで済むはずだろ!?」

「今重要なのは『確実か否か』だ。まともかどうかなんて、考えている場合じゃない」

「だけど! あそこに任せたら何されるか分かったもんじゃねえぞ、まだ何も知らねえ──」

「黙れ、創。それ以上何も喋るな」


 父は怒鳴りはしなかったが、その言葉だけで創の口をつぐませた。


「私達では恐らく原因が突き止めきれない上に、一歩間違えれば取り返しのつかないことになるんだ。こうする以外に選択肢はない。お前も分かっているだろう」

 

 目の前でやりとりを聞いているのに、全く話が分からない。

 馨の中でますます苛立ちは増していた。

 再び黙ってしまった父を見てついに耐えられなくなり、


「……二人とも、さっきから何の話してんだよ」


 気がつけばそう訊ねていた。喧嘩腰にならないように、かろうじて感情を抑えて。

 しかし父はハンドルを両手で握り、


「お前の気にすることじゃない」


 とまっすぐ前を見据えて答えただけだった。

 ──またそれか。

 馨は聞き飽きた返答に呆れたが、同時に父の態度に居心地の悪さを覚えた。

 息子を除け者にするだけの、普段のそれとは違う気がしたのだ。

 むしろ妙に気遣っているようにさえ聞こえた。

 

 苛立ちや怒りに得体の知れない「不安」が混じっていく。

 それは確実に、去年までのシラハオリ儀式の時には感じなかったものだった。


 ◇

  ◇


 葦野沢あしのさわは、元は北海道北部の某ぐんにあった小さな村だった。しかし昭和30年代の市町村合併により、現在はべつちょうという町の一区域となっている。

 山々に囲まれているため、普段は緑豊かで美しい場所だと言えるかもしれない。しかし夏真っ只中の今は、どこもかしこも草木が鬱蒼と茂っていて気味が悪かった。


 馨はその景色を窓の外に見て思っていた。

 ──とうとうここまで来てしまった、と。

 毎年抱いている絶望のような感情が、今回は一段と強く馨の胸をひりつかせていた。


 闇の垂れ込める田園と古い民家をいくつも通り過ぎ、やがて曽祖父の家へと続く暗い林道に入る。

 緩く勾配のついた脇道を登っていくと、景色が開けて道の脇に広い畑が現れた。

 畑の奥には側面が石垣になっている坂があり──

 その頂上に、古めかしい屋敷が鎮座しているのが見える。


 あれこそが、父方の曽祖父の家だった。


 車は畑を迂回し、石垣の坂を登って敷地内にある駐車場で停まった。他にも3台ほど車が停まっていたが、どれも同じく集められた親族のものだろう。


 馨は荷物を持って車を降りると、屋敷を見上げた。


 北海道では少し珍しい、瓦葺き屋根を冠した二階建ての日本家屋だ。

 建てられてから100年は経過しているらしいが、何度も改築されているせいか微塵もそれを感じない。

 今は一階だけでなく、二階の窓からも明かりが漏れていた。

 

「けい坊、行くぞ」


 正面玄関へ向かう父に続いていた創が振り返る。

 彼の声音と表情は、なぜかとても心配そうに見えた。


「……うん」


 しかし、問いただしても答えてはくれないのだろう。

 馨はそれ以上何も言わずに、玄関へと足を向けた。


 玄関の前に立った父が引き戸を開ける。

 馨と創が続いて中に入ったときには、物音を聞きつけて母の真咲まさきと祖母が出迎えに来ていた。


「よく来ましたね、長旅ご苦労様でした。さあ上がって」


 祖母が穏やかな所作で中へと促す。

 奥に続く廊下にも明かりが灯っていて、屋敷の中はいつもより不気味ではない。


 お邪魔します、と言って靴を脱ごうとすると──

 母と祖母の背後からぱたぱたと走る足音が聞こえてきた。

 その足音の主は振り返った彼女らを押し退け、馨の前に勢いよく飛び出してきた。


「やっと来たんだね、馨! 会いたかったっ」


 そう言って両腕を広げたのは、姉のあやだった。


 風呂上がりなのか頬を上気させ、目を輝かせている。

 馨は近づかれた分だけ後退あとずさった。今は全く彼女のテンションに付き合えそうになかったからだ。

 すると彼女は、すぐに心外そうにむくれた。


「ちょっと馨っ、どうして避けるの?」

「……姉貴が近づいてくるからだろ」

「私ずっと待ってたんだよ、すごく心配してたんだから! ほら、こっち──」


「綺。はしたない真似をするんじゃない」


 突然、姉の言葉を遮るように父が冷たく言い放った。


 彼女どころか全員が口をつぐむ。

 嫌な沈黙が訪れたが、彼は構わず廊下の奥へ進んでいってしまった。


「……お父さん、少し疲れてるのよ。明日のシラハオリの準備で、昨日から碌に寝てないから」


 母が苦笑いでそう言って、改めて二人を屋敷の中に促す。


 曽祖父と祖父はすでに床に就いたと聞き、馨は心底安堵した。長旅を経た直後にその二人と対話するのはあまりに負担が大きかったからだ。


 馨と創は祖母と話した後、荷物を置くために二階へと向かった。

 二階にはいくつか部屋がある。

 シラハオリの時は各部屋に家族ごとで宿泊するため、今はそれぞれの襖の向こうから物音がしていた。

 

「もう馨の布団も敷いてあるよ! ふふ、私の隣」


 はしゃいでいる綺を一旦無視し、布団の傍らに鞄を置く。

 すると寝る支度をしていた母がああそうだ、と馨を振り返った。


「シラハオリは明日の朝10時で、その前の準備もあるから、早起きしてちょうだいね」

「あー……、はい。善処します」

「全くあんたは……。自力で起きなかったら叩き起こすからね?」


 母の小言を受けながら、馨はシャツのボタンを外した。今は一秒でも早く楽な格好に着替えて、「束の間の休息」を取りたかったのだ。


 しかしその時。


 先ほど閉めた襖が、後ろで微かに音を立てた。


「けーにいっ」


 背中に、可愛らしく無邪気な声がかかる。

 馨が振り返ると──少しだけ開いた襖から、黒髪の少女が顔を覗かせていた。

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