第九十八話

 それから約1時間半後。

 いつの間にか眠っていたけいは、飛行機の着陸態勢に入るアナウンスで目を覚ました。

 幸い、悪夢には苛まれなかった。

 身体の気怠さは感じていたが、それは単に窮屈な場所で居眠りしたからだろう。

 

 飛行機を降りて、手荷物受取所で自分の荷物を拾う。

 空港の正面出入り口に向かう途中、そうが口を開いた。


「坊。寝てる間、また変な夢見たりしなかったか?」

「うん、特には」

「お〜……そうか。なら良かった」

「でもちょっと疲れたな。……もう9時すぎだけど、ここからバスと電車で葦野沢あしのさわ行くの?」

「ああ、いや。それなんだが、迎えが来るってよ」

「迎え? 誰が?」

 

 正面出入り口から外に出ると、創は立ち止まって携帯の画面に視線を落とした。


「多分──来るのは兄貴だ」

「え、父さん?」


 彼の言葉に馨は眉をひそめて嘆息した。


「あの人が来るわけないだろ。どうせ母さんだって」

「まあ、いつもならな。でも一時間前に、兄貴から『今向かってるから正面出入り口で待ってろ』ってメール入ってたんだよ。義姉ねえさんもいてくれりゃいいが……どうかな」


 創は沈んだ声で言って頭を掻いた。

 馨の父と彼は実の兄弟だが、関係が著しく険悪だった。

 その空気を緩和できるとしたら馨の母だが──彼女がいなければ、車内は地獄のようになるはずだ。馨自身もまた父との関係が良好ではないため、ろくに両者を取り成せないだろう。

 

「創さん。今思い出したんだけど」

「何だ? 坊」

「昨日の夜、父さんから電話来たんだよ」

「ん……そりゃあ珍しいな。何て?」

「いや、出なかった。で、折り返してもいない」

「はあ?」

「だからあの人、機嫌悪いかも。今のうちに謝っとく」


 目も合わせずぼそっと告げると、創はオーバーな動きで頭を抱えた。


「おまえ……そんなん機嫌損ねるに決まってんだろ、きっと五割り増しで面倒くせえぞ! なんでそんなことした?」

「会話したくなかったから」

「いや気持ちは分かるがよ! 急を要する連絡かもしれねえじゃねえか?」

「なら俺が出るまでかけてくるだろ。でも、そうじゃなかったし」

「……おいおい。お前、そこまで反抗的な奴だったっけ!?」


 彼はどこか寂しげな顔で訴えかけてくる。

 しかし、馨はあの時の選択を間違いだとは思っていなかった。


「その時千恢ちひろといたから邪魔されたくなかったんだよ」

「あ、ああ、そういうことな! でもそれにしたって──ん? ちょっと待て」


 不意に、寂しげだった創の顔が険しく曇る。

 彼はそのまましばらく沈黙してから、馨を見て再び口を開いた。


「お前それ、昨日の何時ごろの話だ?」

「え……確か夜10時すぎくらい、だったかな」

「その時チヒロちゃんと何してた?」

「何って、別に……一緒に、テレビ観たりとか」


 当然、嘘である。

 あの時はホテルでシャワーを浴びていた。

 創には千恢ちひろとの馴れ初めを全て話したが、かと言って生々しい日常の細部までは明かせなかった。

 そもそもなぜそんなことを訊くのだろうか。


 彼は馨の答えを聞くと、顰め面で唸った。


「じゃあ、やっぱりのか……?」

「? 急に何の話?」

「あぁ、いや悪い。何でもねえ……こっちの話だ」


 はぐらかしながらも、彼はまだ何か思案している。

 馨は自分が抱いていた違和感がより明確になっていくのを感じた。


 夏らしくない、妙に冷えた風が吹き抜ける。


「……創さん」

「ん、あ? 何だ?」

「ずっと思ってたんだけどさ、俺に何か隠してる?」

「え? いや、それは──」


 創が答える前に、背後から車の排気音が聞こえてきた。


 振り返ると、空港出入り口の前の道路を通って一台の軽自動車が近づいてきていた。

 あれは母真咲まさきの車だ。

 しかし、乗っているのは母ではなかった。


「来た……クソ、兄貴だけかよ」


 創の漏らした言葉には憎しみが込もっていたが、その表情は少し青褪あおざめていた。

 一体、何を隠しているのだろうか。

 馨は彼の顔をじっと見たが、今は問い詰めている場合ではなかった。


 車が目の前までやってきて、助手席側の窓が開く。


 暗い車内にいた人物の顔を駐車場の街灯が照らす。

 シルバーフレームの眼鏡の奥に冷ややかな双眸そうぼうが見え、馨は久方ぶりに深い嫌悪感を覚えた。


「……父さん」

「乗りなさい。お前は助手席だ、馨」


 挨拶も無く、馨の父──しきは静かに言った。


 ◇


 車の走行音だけが車内に響く。

 父は勿論、後部座席に座る創も口を閉ざしていた。


 空港から葦野沢あしのさわまでは最低でも1時間はかかる。

 走るのは夜の闇に包まれた田舎道。景色に逃げることもできないまま、苦痛の時間を過ごすしかなかった。


 ──隣に目を向けると、父の無表情な横顔がある。

 後ろに撫でつけた七三分けの黒髪に、皺一つないワイシャツと濃紺のシルクネクタイ。


 遅くまで仕事があったのだろうが、それにしても堅苦しいその風体は昔から変わらない。唯一の変化といえば、四十代になって少し見た目が老けたくらいだ。


 前を見つめる彼の眼差しはひどく冷たい。


『あんたの目つき、ほんとお父さんそっくりだねぇ』


 息子と夫の仲をどうにか改善したい母には、度々そう揶揄からかわれた。

 しかし、彼女の努力と気遣いは全く無駄だった。

 幼い頃から冷厳な目を向けられ、何を成しても否定されてきて、馨はもう父を慕おうとも父に愛されようとも思っていなかったからだ。

 

 ──父を睨んでしまう前に目を背けて、窓の外を眺める。

 草原も畑も森も全て闇に溶けきっていた。

 車のヘッドライトは表面の草木を撫でるだけで、その奥に潜むものにまでは届かない。


 まだ曽祖父の家に到着してすらいないのに、馨の気分は最悪だった。

 いつも味方であるはずの叔父も何かを隠している。

 両親や姉、その他の親族と同じように。


 目を閉じると、先ほどの悪夢の中で覚えた苛立ちが、またしても募ってくるようだった。

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