第九十七話
目を開けて顔を上げる──
真正面に、物凄い形相で右手を振りかぶっている
「! 創さん?」
「ぬ……!? おお! あーよかった……」
創は視線がかち合うと安堵の表情を浮かべ、深く溜め息をついた。
そして掲げていた右手を下ろす。
「危ねえ危ねえ……も少しでお前に平手打ち喰らわすところだった」
そう言いながら、彼は
二人がいるのは空港の搭乗待合室である。
保安検査を終えたあと、ロビーチェアで待っているうちに眠ってしまったのだ。
「平手打ち? な、なんで」
「声かけても揺すっても全然起きなかったんだよ。
「あ……」
脳裏に、今しがた見た夢が蘇ってくる。
早くも細部は曖昧になり始めていたが、以前見た夢と同じく曽祖父の家の一室にいたのははっきり覚えていた。
『はやくおいで』
微笑みを湛えながら呟いた、黒髪の女。
あの瞳には、見覚えがある。
しかし顔を思い出そうとしてもそれだけは敵わなかった。
「おい。馨」
創が静かに口を開く。
「お前、どんな夢見てたんだ?」
「え、うーん……ひいじいちゃんの家にいる夢だった。知らない女の人が出てきて何か言ってたけど、意味は分からない。前にも似てる夢見たんだよな……」
「最初に見たのはいつだったんだ?」
「覚えてるかぎりだと、大学入ってからかな……創さん、何か分かるの?」
「……」
彼の表情がやけに真剣だったため馨はそう問うたが、彼は答えない。
たっぷりと間を置いたあとで、首を横に振った。
「いや、分からねえ。別に心理学とか夢分析に詳しいわけでもねえし。ちなみに、その女は何て言ってた?」
「確か……『はやくおいで』って」
「あ? なんつーか、そりゃあ──エロい台詞だな」
「……はい?」
創の顔は真面目なままだったが、それでも馨は確信した。
叔父はふざけている。
「……創さん。俺が魘されてるの見てたんだろ」
「見てたぜ? でも苦しんでたんじゃなくて、興奮して鼻息荒かっただけみてえだな。ハハハ! 起こして悪かった! 済まんな!」
唐突にいつもの調子に戻った叔父の
「なわけねえだろ。馬鹿じゃないの」
「ほんとか? 心当たりねえか〜? チヒロちゃんとイチャイチャできてなくて欲求不満だったとかよぉ」
「ないって。ていうかむしろ……いや、えっと……別に普通」
馨は要らぬことを言いかけ、慌てて言葉を濁した。
──欲求不満など感じるわけがない。
毎夜飽きもせず肌を重ねていたのだから。
自分は一体どうしてしまったのか?
そう思わずにはいられなかった。
「まっ、申し訳程度に真面目な話をするなら、悪夢は精神的に余裕がない時によく見るって言うよな。お前『楽しくやれてる』って言ってたが、本当に悩んでることねえの?」
「……多分。特に思いつかないけど」
「そうか! なら、夢もあまり気にするこたぁねえよ。きっと勉強で疲れてたりしたんだろ」
軽い口調で言うと、創は膝を打って立ち上がった。
「さて、ちょっと電話してくる。搭乗時刻までにゃ戻ってくるから、お前ここで待ってろな」
「うん。分かった」
スマートフォンを操作しながら離れていく彼の背を、馨はじっと見つめて見送った。
彼の足元はサンダルだった。
あれで曽祖父の家まで行くつもりなのだろう。
そのスタイルは昔と変わらないが──彼の些細な言動や振る舞いには明らかに違和感があった。
彼は馨のことをよく理解してくれているが、それは馨も同じだった。いつもと様子が違えば、当然その異変には気がつく。
彼は何か隠しているのかもしれない。
しかし昔からずっと開けっ広げな性格の彼が口を閉ざしているのなら、それは──。
馨は悪夢の余韻も
◇
「お前、これがチヒロちゃんなのか……!?」
飛行機が北海道へ向けて飛び立ったあと、馨のスマートフォンを握りしめた創は座席で驚愕の表情を浮かべていた。
声こそ押し殺しているが、かなり驚いたようだ。
──彼の振る舞いに覚える違和感はなくなっていないが、今はとりあえず目を瞑ろうと馨は思っていた。
創が見ているのは、飲み会の集合写真に写る千恢だ。
二人で撮ったものはどうにも面映くて見せられなかったのだ。
「そ、そうだけど」
「お前の彼女だから、また『控えめなお嬢さん』みたいな
「……それはたまたまだけど」
「にしても派手可愛い娘だなぁ。そりゃあ、迫られたら落ちても仕方ねえよなぁ〜」
馨はにやけた眼差しを向けてくる創を睨み返した。
「俺はちゃんと、千恢の中身も好きなんだって」
「わ〜かってるっつーの、ちょっとイジっただけだよ。お前がはっきり言うってことは確かにそうなんだろうさ」
「……うん」
「こんな感じで、お前に尽くしてくれんだろ? 非の打ち所がねえってもんよ」
「まあ……」
創からスマートフォンを受け取って、皆と写真に写る千恢を眺める。
「でも、付き合ってることは秘密にしてくれって言われてるんだ。それだけは、ちょっと、不満」
「おお……! 秘密主義のお前が、皆に彼女自慢したいって?」
創は楽しげな声を上げた。
「隠したいって気持ちより、彼女を誇りに思う気持ちが勝ったっつーことか! すげえなぁ。人って変わるんだなぁ」
囃し立てるような言い方に羞恥心を煽られる。
しかし馨は、彼の言葉でとあることに思い至っていた。
自分にとって千恢は、自分の中に眠っているものを呼び覚ましてくれる存在なのかもしれない、と。
そんな風に考えると、彼女への想いもまた少し強くなるようだった。
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