第九十六話

「馴れ初めって言ったって、そんなの……」


 心の底では、千恢ちひろと二人きりで抱えていたものをそうに打ち明けたいと思っていた。

 しかし、千恢との間にあった出来事を言葉にするのは、けいにとって簡単なことではなかった。

 

「どう説明したらいいのか、分からない」

「はぁ? 何だそりゃ。普通に『どんなきっかけで好きになって付き合うに至ったのか』話しゃあいいだろ?」

「……」


 始まりは、恋心を踏みにじられたあの夜にある。

 今は心の底から千恢を大切に思っていても、きっかけが不純であった事実を完全には否定できない。

 創にも軽蔑されるかもしれないと不安を抱きながら、馨は口を開いた。


「創さんが期待してるような『めでたい話』はできないと思う」

「んん? なんでだよ」

「……。正直に話したら、姉貴には黙っておいてくれる?」

「え、ああ、勿論黙っとくけど。何かあったのか、お前」

「創さん的には大したことないかも。……俺にとっては、複雑な出来事だったけど」

「お、おいおい。そんなら多分俺にとっても複雑だぜ?」


 創はフロントガラスの向こうに目を向けたまま、興味津々ながら心配そうな表情を浮かべた。


 ◇


「……それで、『やっぱり好きだ』と思ったから、千恢に付き合ってほしいって言ったんだ」


 静まり返った車内で、馨は正直に話し尽くした。


 寧々に恋をして失恋に至るまでの経緯も、その後で千恢との間にあったことも、全て。


 創は意外にもほとんど黙って話を聞いていた。

 途中その様子を不思議に思った馨は「聞いてる?」と尋ねたが、彼は神妙な顔で「おう。気にせず続けてくれ」と言うだけだった。


 話を締め括った後。


「創さん……もしかして、引いた?」


 馨が恐る恐る問いかけると、創は前を見たまま首を横に振った。


「引かねえよ。きっかけが何であれ、今お互いに好き合ってんならそれでいいじゃねえか」

「! ……うん」


 その言葉で馨はひどく安堵した。

 彼は昔と変わらず、良き理解者でいてくれたのだ。

 ──父ならきっと今頃、頭ごなしに叱責して全てを否定していただろう。


「まあ驚きはしてるけどな! 途中何度か急ブレーキ踏みそうになったぜ」

「そんなに……?」

「あたりめえだろ! まさか自分の甥っ子がそんなことになってるなんて、夢にも思ってなかったしよ。ったく……悩んでたんなら相談すりゃよかったのに、水臭えなぁ」

「ごめん。さすがにちょっと、言いづらかった」

「分かるけどよ! で? それからはもう悩んでねえのか?」

「うん。楽しくやれてる」

「そか……ならいいわ。今度からは、何かあったらいつでも言うんだぞ!」


 先ほどまでの深刻な表情とは打って変わって、創は優しげに笑んだ。


 長かったドライブも終わりに差しかかっている。

 空港に近づくにつれて憂鬱な気持ちは増していたが、創と言葉を交わして少し軽くなった気がしていた。


「それはそうと、チヒロちゃんの写真! 早く見せろよ!」

「えっ? いや……写真はまだない」

「バレバレの嘘つくんじゃねえ! 取って食ったりしねえから見せろ!」

「だ、だから、運転中によそ見すんなって」

 

 ◇

  ◇


 不意に意識が浮上する。

 座ったまま、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。


 閉じていた目を開けると、そこは和室だった。


 掛け軸が飾られた床の間と花木が描かれた襖。

 室内は陰気な照明によって無機質に照らされている。


 曽祖父の家の一室だ──すぐにそう察するのと同時に、馨はこれが夢であると気がついた。


 以前にも全く同じ光景を見たことがあったからだ。

 あの時と同様に辺りを見回そうとするが、身体が動かない。

 

 不意に背後で聞こえ始めた音。それも聞き覚えがある。

 畳を這う、衣擦れのような音だ。

 それは徐々に近づいてくる。

 

 馨は今度こそ身体を動かそうとしたが、やはり叶わなかった。焦る気持ちが増すだけで全くなす術がない。

 

 音は馨のすぐ後ろまでやってきた。

 そして一時訪れる、息苦しいほどの静寂。


 前回と全く変わらない流れに、馨は恐怖心だけでなく苛立ちも覚えた。

 この後どうせ訳の分からないことを囁かれるのだ。

 なぜ自分に訴えてくるのかも分からない。


 背後で何かが蠢く気配がする。

 頭上でさらさらと気味の悪い音が聞こえ──おびただしい純黒の長髪が、両肩や腕に垂れ落ちてきた。

 

 真後ろにその髪の持ち主がいる。

 息遣いまで聞こえるほど、すぐ傍に。

 

「はやく」


 湿り気のある声が静かにそう囁いた時。

 馨の中で増していったのは──やはり苛立ちだった。

 

 急に動くようになった腕を動かし、自分を覆う黒髪を一房掴む。

 そしてそれを、前に引き摺り出すように強く引っ張った。


 どた、と重みのある音が落ちてくる。

 視線を右下に動かすと、床に誰かが倒れていた。

 長い黒髪を畳に散らしてこちらを見ている。

 微かに微笑んでいる。

 

 馨はその瞳に見覚えがあった。

 何度も何度も見つめたことがあった。

 苛立ちは消え失せ、なぜかとても悲しくなる。


「はやくおいで」

 

 湿り気のある声が再びそう呟いた時──


 それを遮るように別の声が響き渡り、身体を激しく揺さぶられた。


「馨……! おい、起きろ!」







───────


❀補足❀


「前回見た夢」に関しては

下記の【第五十三話】後半をご参照くださいませ。


https://kakuyomu.jp/works/16817139556618491028/episodes/16817330667296740084


香(コウ)

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