第五十三話

『君は頑張ったよ。一花いちはなくん』


 けいが事の顛末を話し終えたあと、百花ももかはそう言って深く嘆息した。

 

『あの子、本当に悪魔みたいだね。いや、通り越して魔王かも。君の気を引くためならどんな酷い手でも使うんだ……見境ないなぁ』


 彼女の声のトーンは落ち着いていたが、微かに震えていた。

 怒りを押し殺しているようだった。


「その曲の話は、単に俺が自意識過剰なだけの可能性もあるけど……」

『違う、そんなわけないよ。これもあの子の作戦に決まってる。本当は君だってそう思ってるんでしょ?』

「……」


 百花の指摘どおり、馨もそのことには気がついていた。ただどこかで、まだ信じたくないという思いを捨て切れていなかったのだ。

 

『まあ、すぐに切り替えられないのは分かるけど……それはさておき。今君から話を聞いて、私の中で色々なことが確信に変わったかもしれない』

「色々なこと、って?」


 百花が何か言うたびに胸がざわつく。

 しかし逃げていては何の解決もできないと言い聞かせ、じっと彼女の言葉を待つ。


『前にも言ったけど、あの子は自分の手じゃなく、君の手を汚させるつもりなんだよ。あくまで告白された側──言い寄られた側になって、《浮気の発端は君だった》と自分の中で思いたいの。要は言い訳にしたいってこと』

「い、言い訳……」

『良い子でいたいんだよ。もう手遅れなのに』


 寧々の中に渦巻く思考回路と普段の彼女との隔たりが、馨は恐ろしくなった。

 何も返す言葉がなく黙っていると、


『あの子、君に今日告白してもらえなかったから、これからもっと躍起になるかもしれないね』


 百花は静かにそう言った。

 馨は不安を覚え、思わず眉根を寄せる。


「あんなにシラ切ったのに……?」

『勿論、諦める可能性もないとは言えない。でもあの子の執着は生半可なものじゃないよ。だって、将来結婚するつもりの恋人を裏切ってまで関係を持とうとしてるんだから。一度不発だったくらいで、そう簡単に離さないと思うなぁ』

「……なんでそんなに、俺に拘るんだろう」

『どうしてだろうね。私もあの子に聞いてみたいな。でももしかしたら、そこだけは話が合っちゃうかも』


 百花は溜め息混じりに笑う。

 しかし馨はその冗談には付き合う余裕もなく、沈黙を返した。

 寧々がまだ諦めていないならば、今日のようなことが明日以降も続く恐れがあるのだ。今後は百花を頼ることもできるかもしれないが、バンドでの集まりではその手は使えない。

 そもそも百花を信用し始めてはいても、なぜか馨はこれ以上彼女に弱みを見せたくないとも思っていた。


『一花くん』

「! な、何」


 テーブルに置いた携帯のスピーカーから不意に呼びかけられ、我に返る。


『不安なの?』

「い、いや……別に」

『大丈夫だよ。私もできる限り助けてあげるから。だから、今はつらくても、あの子に負けないで頑張ろう』

「……勿論俺だってもう、振り回されたくないけど」

『うん。その気持ちがあれば大丈夫だよ。あの子に提案された曲だって、進んで積極的に練習すればいい。君の歌声でむしろ、あの子を落とせばいいんだよ』

「え……? な、何言ってんの」


 想定外の台詞に馨は面食らった。

 自ら寧々に近づいてどうしろと言うのか。そう指摘する前に、百花は言葉を続けた。

 

『せっかく君は音楽が好きなんだから、全力で楽しまないと。好きなことをして人生を謳歌してる人って、魅力的に見えるよね? 君もそうなればいいってことだよ』

「いや……なんとなく分かるけど、わざわざ寧々と関わる機会増やすのかよ?」

『そうなるね。でもそこは、好きなことに没頭すればきっと気にならなくなるよ』

「……そう、か?」

『うん。それで寧々ちゃんは、そんな君を見て《自ら告白したくてたまらなくなる》かもしれない。だけど残念! 恋心と決別した後の君を振り向かせることは、あの子には不可能なのだ。うむ……相手に危害を加えない、実に前向きな仕返しだよね』


 芝居がかった口調で百花はそう言った。


 寧々を落とす云々はさておき、彼女の描いたシナリオ通りに事が運ぶ可能性もあるかもしれない。

 しかしそれには「二度と寧々に惹かれない」という強い意志が必要不可欠である。

 随分と強引な条件で呆れるところだが、馨はどうしてか少し可笑しくなって表情を緩めた。


「なんか色々力説してるけど……結局は根性論かよ」

『ん? そうだよ。前にも言ったじゃん? 君次第なんだから、惑わされないように頑張ってくれないと』

「はあ……。まあ俺の問題だし、努力はするけど」

『うんうん、その意気だ。それに──

 君が惑わされていいのは、私だけだからね』

「……え? な、」


 馨は不意打ちの囁きを喰らい思わず口を噤む。

 何か言い返そうとする前に、彼女はけらけらと笑い始めた。


『あははっ、冗談だよ〜。むしろ友達なんだから、もう惑わされちゃだめ♡』

「ば……馬鹿か。言われなくても、二度とねえわ」

『ふうん? ふふふ、本当かなぁ』


 スピーカーの向こうでいつもの笑みを浮かべているかと思うと無性に彼女が憎たらしくなり、馨は舌打ちした。


「ふざけてんなら切るぞ」

『わぁ、ひどい。心配して電話したのになぁ』

「……う。それは、助かったけど」

『なんてね。こっちが強引にかけただけだし。でも、気が紛れたなら良かったよ』

「……おう」


 素直な感謝の言葉が出かかったが、すんでのところで詰まってしまう。

 百花は当然それを知る由もなく話を続ける。


『早く淀名和よどなわ先輩も捕まえて、バンド活動始めないとねぇ。そのために纐纈はなふさ先輩に会うのはちょっと骨が折れそうだけど、協力よろしく頼むよ』

「ああ、うん」

『ありがと。それじゃあまた明日ね』


 お休み、と言葉を交わして通話を切る。


 再びテレビの音声だけの世界に戻ったが、彼女と話す前の孤独感は不思議なくらいに薄れていた。

 もしも彼女がこの効果を意図して電話をかけてきたのだとしたら、なかなかに侮れない。

 馨は少し呆然としながらそう思った。



 ◇



 閉じていた目を開けると、そこはある和室だった。

 視界に映るのは、掛け軸が飾られている床の間と花木が描かれた襖。

 室内は陰気な照明によって無機質に照らされている。

 曽祖父の家の一室だ、と馨はすぐに気がついた。


 状況が飲み込めず辺りを見回そうとする。

 だが、正座した状態から全く身動きを取ることができなかった。


 すると不意に、背後で微かに物音がし始めた。

 畳を這う、衣擦れのような音。

 それは徐々に大きくなっていた。

 ──近づいてきている。

 

 馨は悪寒を覚えたが、依然として身体が動かせなかった。焦燥感が増すばかりで、なす術がない。

 

 逃げ出すこともできぬまま、やがて音は馨のすぐ後ろまでやってきた。


 一時訪れる、息苦しいほどの静寂。


 それから何かの蠢く気配とともに、頭上でさらさらと微かな音が聞こえ──おびただしい純黒の長い髪が、馨の両肩や腕に垂れ落ちてきた。

 馨は驚愕したが、声を出すことができなかった。


 真後ろにその髪の持ち主がいる。

 息遣いまで聞こえるほどすぐ傍に。

 その息が、耳にかかる。

 

「それでいい」


 ただ一言、湿り気のある声が静かに囁く。

 その声が馨の中に齎したのは、漠然とした恐怖だった。

 

 ふと、視界の下部で何かが身動みじろいだので、視線を落とす。

 膝を完全に覆っていた黒髪が、波打つように動いていた。

 まるで一つの生き物のように──



「はっ……!」


 戦慄を振り切るように、馨は暗闇の中で飛び起きた。


 そこは薄気味悪い和室などではなく、見慣れた自室のベッドの上だった。

 咄嗟に自分の身体を見下ろす。

 しかし特に異質なものは確認できない。


「ゆ、夢……」


 馨は嘆息して小さく呟いた。


 幾らか安堵はしたものの、胸の内に澱む嫌な予感は消えてくれない。

 幽霊や超常的な現象などはあまり信じていない。だが以前姉のあやが来たときに見た夢と、どこか繋がりがあるような気がしていた。


 『もしまた困るようなことがあったら、私に連絡してね』


 綺が帰り際に言った言葉を思い出し、枕元の携帯を一瞥する。

 しかし、ただの夢を恐れるなんて馬鹿らしい。その上、姉に頼るのはどうにも癪である。

 馨は顔をしかめて首を振り、胸の悪さを解消するべくリビングへ向かったのだった。

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