第五十二話

『やあやあ。千恢ちひろちゃんだよ〜』


 徐々に聞き慣れつつある百花ももかの緩い声。

 けいはその声に安堵するような、しかしそれでいてむず痒くなるような感覚を覚えていた。


「なに勝手に電話してきてんだよ」

『まあカタいこと言いなさんな。文章打つより早いんだからさ』

「……ああ、そう」

『元気ないなぁ一花いちはなくん。さっきの話、本当に話さなくて大丈夫? 別に気持ちがまとまってなくても全部聞いてあげるよ?』

「いい。正直、あまり考えたくないから」

『そんなに酷いことされたの? ……あの子ってほんと、悪魔みたい』

「それより……お前の話の続きは?」


 馨は沈んだ気持ちを切り替えようと問いかけたが、百花は返事をしなかった。

 十数秒待ったあとも沈黙が続いたので再度呼びかける。


「? 百花?」

『あぁ、ごめんね。ちょっと言葉が出なくて。えーと、淀名和よどなわ先輩の話だったね。……実は今日、に会ったんだ。だから聞いてみたの、どうしたら彼女と連絡取れますかって』

「うん……それで?」

『そうしたら、方法は教えてやるけどまず一花いちはなも連れて来いって言われちゃって』

「俺? ……まあ、行くのはいいけど。ちなみに、その人って誰なの」

『君も知ってるかな。3年の纐纈はなふさ先輩。ほら、背の高いお洒落な人』

「……うわ」


 遭遇する機会はさほどないが、馨は既にその人物のことを嫌というほど知っていた。

 名前は纐纈はなふさ 雪之丞ゆきのじょう

 彼は馨と同じく英文学科に所属している。

 何が宜しくないのかと言えば──彼はあのツインテールの暴君、高蜂谷たかはちや 謳香おうかと仲が良いのだ。

 彼らは見事なまでに「類は友を呼ぶ」という諺を体現している。


纐纈はなふさ先輩が君と何を話したいのかよく分からないけど、会ってもらってもいい?』

「まあ……淀名和先輩と連絡取るためなら、仕方ない」

『よかったぁ、ありがと。日時決まったら教えるね』


 百花は安心したように息をついた。


『淀名和先輩と組めたら、どんなのやろうか? コピーしたいバンドとかある?』 


 話は終わったと思いきや、続けてそう問うてくる。

 しかし今の馨の頭には冴えた案など浮かんでこなかった。


「え、ああ……そっちは何か、希望でもあるの」

『そうだなぁ、私は曲によってパート変えたりしてみたいかな。もちろんクオリティ保てる範囲でね。面白そうじゃない?』

「まあ……そうだな。飽きなさそう」

『でしょ? だから、淀名和先輩にも君にも歌ってほしいと思ってるんだ。ボーカルは曲によって変えるというか。あ、それと──デュエットやったりしてもいいよね』

「……」


 馨はその言葉を聞いた途端、再び胸の痛みがぶり返すのを感じた。


 脳裏に寧々の顔が思い浮かぶ。

 会話へ意識を戻そうにも、執拗にその姿がちらつく。

 曲を提案したときの恥じらうような表情。

 あの話を聞きたいと言ったときの純真な眼差し。


 頭では分かっていても、やはり彼女の振る舞いは偽りのものに見えなかった。今日の彼女は確かに、今まで馨が恋い慕っていた彼女だった。

 全てまやかしだったなどと信じたいはずがない。


『ん? 一花くん、聞いてる?』


 不思議そうな百花の声で馨は我に返る。

 だが、一度胸に戻ってきた痛みは消えなかった。

 

「悪い……聞いてたけど、ちょっと考え事してた」

『もー。せっかく千恢ちひろちゃんと電話してるっていうのに、上の空とは良い度胸だなぁ』

「……」

 

 気の利いた返しも浮かばない始末だった。

 適当な理由をつけて、通話を切り上げた方が良いかもしれない。

 そう思ってスマートフォンに手を伸ばしたとき、


『ねえ一花くん』


 突然、百花が静かに言った。

 思わず手が止まる。


『辛いなら、またあげようか』

「……え」


 言葉の意味を理解するより早く、彼女のひそやかな声が身体を侵蝕していく。


『勿論、本当は話を聞かせてほしい。けど辛くて言えないなら──せめて少しの間だけでも、何も考えられなくしてあげるよ? あの時みたいに』


 気を抜けば呑まれてしまいそうな甘い囁きだった。

 あの夜の記憶が蘇り、妙な感覚が全身を巡る。

 しかし、馨は二度とその優しい誘惑に負けるわけにはいかなかった。


「なっ、何言ってんだよ。もう少し、マシな方法思いつけ」

『これが私にとっては一番手っ取り早くて、得意なやり方なんだもん』

「手っ取り早い、って……」

『君が苦しんでるところはもう見たくないの。だから……君が求めてくれれば、私は何でもしてあげるよ』

「い、いい。必要としてない。そもそも《友達》なんだろ、俺達」

『そうだよ。だけど、友達同士でもする人はするでしょう? まあそうなると《何の友達?》って話になってきちゃうけど』


 彼女の言葉は明け透けだった。

 馨はこの手の話をどこかはばかられるものだと思って生きてきたが、彼女はどうやらそうではないようである。

 

「と、とにかく。俺はもう二度と、そういうことする気ないから」


 狼狽しながらも馨はそう言い切った。

 すると彼女は『そっか』とすんなり引き下がる。


『分かったよ。君の意思は尊重する。だけど、独りで落ち込ませたままにはしたくないな』

「そんなん、言われても」

『今日あったこと、どうしても話せないかな?』

「……」

『私は君の気持ちをちゃんと知ってるから、的外れな励ましで余計に君を傷つけたりしないよ』

「だけど……多分、上手く話せねえから」

『どれだけ支離滅裂でも、言葉が汚くてもいいよ。思い出すのが辛くても、その辛さは私が和らげてあげるから』


 優しく諭すような声に馨の心は揺れた。

 息が詰まり、一瞬遅れて目の奥が熱くなる。


「そんな簡単に、言うなよ」

『簡単に言ってるつもりなんてない。君を想って、本気で言ってる。だから私を信じて……今日のこと、話してほしい』


 彼女の表情を窺い知ることはできない。

 しかし馨は、その言葉を嘘とは思わなかった。


『ゆっくりでいいから、教えて』


 身を委ねることに対する躊躇いが、あの夜と同じように掻き消えていく。

 彼女なら受け止めてくれると心のどこかで確信する。


 馨は深く息をしたあとで口を開いた。


「……分かった。でも聞き苦しかったら、通話切って」

『何言ってるの。そんなこと、絶対しないよ』


 百花は優しげに笑ってそう言った。

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