第五十四話
数日後の午後。
昨夜
程なくして、中央棟の方からレンガの敷かれた通路を歩く見慣れた姿が目に留まる。
百花は馨に気がつくと手を振り、特に急ぐでもない足取りで目の前までやってきた。
「や。お疲れ、
7月に入ってより暖かくなってきたからか、百花の服装は際どさを増しているように見受けられた。
ぴったりとしたハイネックのトップスは袖がなく、スカートもかなり短いせいで、彼女の生白い素肌が惜しげもなく晒されている。
馨は目のやりどころに困り、そっと視線を逸らした。
「いや……全然。今来たとこ」
「そっかぁ、ならよかった。さ、中に入ろ?
扉を押し開けて中に入っていく彼女に続く。
サークル棟は建物が古くエレベーターもないため、二人は階段で部室のある4階に向かった。
「先輩、君に何の用があるんだろうね?」
先を歩く彼女が肩越しに振り返り、そう尋ねてくる。
馨は当然見当もつかず首を捻った。
「さあ。まともに会話したことないんだけどな」
「ふうん? それなら、これを機に話したいだけかもね」
「……だといいけど」
馨はどうしても
最上階まで上りきると、階段から一番近いところに
先に近づいた百花はドアノブに手を伸ばしかけ、
「ん?」
不意に廊下の奥の方へ視線をやった。
馨が彼女につられてそちらを見ると、廊下の端にある窓の傍に男性が一人、外を向いて立っていた。
「あ、先輩あそこにいる! 行こ、一花くん」
百花は言うや否や小走りで駆け出した。
彼女と違って馨は少々気が重かったが、遅れないよう後に続く。
二人がすぐ目の前まで辿り着くと、窓辺の人物が振り向いた。
「よォ、
百花を見て悠然と微笑んだ彼こそが、
ミディアムスタイルで緩くパーマのかかった赤銅色の髪。
加えて洒落た柄の入った濃紺のヴィンテージシャツと黒のスリムなパンツが、彼の長身痩躯を引き立たせていた。
「
優しげだが、どこか隙のない眼差し。
馨は緊張を覚えながら頷いた。
「は、はい。そうですね」
「お前、俺達に全然近寄って来ねェもんな」
「いや……そんなつもりは」
「隠さなくていいよ。関わり合いになりたくねェんだろ? 顔に書いてある」
彼は淡々と言って煙草を口にする。
馨はその言葉に何と返せばよいか分からなかった。
高蜂谷や澤田のように露骨に威圧してくるわけでもないのに、正直にものを言うのが躊躇われたのだ。
「でも先輩、どうして一花くんに会いたかったんですか?」
百花が纐纈に尋ねる。しかし彼はその何気ない質問にすぐには答えなかった。
煙草の煙を斜め上の方向に吐いて、間を取ってから口を開く。
「高蜂谷ともう一人の奴がな、少し前から
「なるほど? 一花くん、人気者なんですねぇ」
百花は軽い調子で
しかし馨にとってはあまり喜ばしいことではない。むしろ、どちらかと言えば妙な注目は避けたかった。
「さァ、それは分からねェけど。とにかく俺は一花に少し聞きたいことがあって呼び出したんだよ」
「……聞きたいこと?」
「そう。俺の質問に答えてくれたら、
纐纈はそこまで言って再び馨を見据えた。
「一花。お前──
「? ああ……はい。一度だけ会ったことあります」
朧げながら、馨の頭の中にはロリータファッションに身を包んだ高身長の女子学生が浮かんだ。
以前高蜂谷のスマートフォンを届けに行ったときに居合わせた、ヤッシーというあだ名を持つ人物。
纐纈は馨の答えに片方の眉を上げた。
「一度だけ?
「そうですけど……あっでも」
そこでやっと馨は、名乗ったときに天満屋敷が不審な反応を示していたことを思い出した。
「天満屋敷先輩の方は、俺の苗字に聞き覚えがあったみたいです。最終的には『人違いだ』って言ってましたけど」
「……。お前の方はあいつと本当に面識ねェのか?」
「ないです。というか、あったら覚えてると思います」
馨がそう返すと、纐纈は訝しげな表情を浮かべた。
「だとしたら、少しおかしいな」
「? 何がですか」
「あいつ、『人違いだ』って言うわりには
「そうなんですか……でも、本当に面識ないっすよ」
不可解な話に馨も眉を顰めて首を傾げる。
すると、隣で静かに話を聞いていた百花が、
「ただ一花くんのことを好きになっただけ、とかじゃないんですか? そのテンマヤシキって先輩」
と会話に参加してきた。
彼女はちら、と馨を見て言葉を続ける。
「たった一度顔合わせただけだとしても、一目惚れしちゃう可能性だってありますし。そういうことじゃないですか?」
「いや、それはねェ。……と言いたいところだったが、俺も最初はそう思った。だから問い質してみたんだけど、顔真っ青にして否定してたんだよな。照れ隠しでもなさそうだった」
「んー、じゃあちょっと違う、のかなぁ?」
「ああ。だから俺はな……一花、お前があいつに何かしたんじゃねェかって思ってたんだよ。まァ結局、それも違ったようだが」
纐纈は大儀そうに溜め息をつき、吸っていた煙草を銀色のアッシュシリンダーに入れた。
「お前が何も知らねェなら、この話はもういい。忘れてくれ」
「え? は、はあ……分かりました」
突然切り上げられて肩透かしを食らう。
馨は普段ならこの手の話に無関心なはずだったが、不思議と少しだけ心の片隅に引っかかる気がした。
それでも、今纐纈に何かを根掘り葉掘り訊ねようとは思わなかったが。
「じゃ、約束どおり
「あ、はい」
「まァ結論から言うとな、俺もあいつと連絡取るのは難しい」
「……え?」
馨の口からつい間の抜けた声が出る。
百花も隣でぽかんとしていた。
「携帯も持ち歩いてんのか怪しい。MINEなんか当然既読もつかねェしな。それと、多分講義も殆ど出席してねェ」
「……そんな」
「でも、一つだけ確かなことがある。──学生会館に、たこ焼きの屋台が来る日の昼。淀名和は必ずその屋台に行くんだよ。一日数量限定の『もち明太チーズたこ焼き』を買うためにな」
「は……? な、何ですかそれ。訳分かんねえ……」
あまりにも珍妙な話に、馨は思わずそう口にしてしまう。
しかし纐纈はそれを咎めることもなく、ふんと笑った。
「俺も馬鹿馬鹿しいと思ってるよ。でも、俺らのバンドもあいつに用があるときはそうしてんだ。それが一番確実だからな。ったく……あいつもなかなか『先輩』ってモンを嘗めてるよなァ。そろそろ一度シメるか」
最後はただの呟きだったが、馨にはその台詞が冗談には聞こえなかった。
「ねえねえ、一花くん」
ふと、百花が困った表情で馨を見上げて言う。
「もしかして
「いや……もしかしなくても絶対変だろ」
このまま会えない方が良いのではないか。
馨は切実にそう思い始めていた。
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