第五十五話
昼休みに入った直後の学生会館は、3階の食堂や1階の生協に向かう学生達でかなり混雑する。
その入り口前にある列をなした屋台に、
のれんには大きく「たこ焼き」という文字。そしてデフォルメされた蛸のイラストがついている。
──目的は当然、
同席するはずだった
願わくば今回の接触だけで、
馨はそう思いながら、人混みの中を見回した。
するとその時、ちょうど列の先頭から人が一人出てきた。
たこ焼きのパックを大事そうに両手で持つ、小柄な女性だ。
シンプルな黒のTシャツにグレーのカーゴパンツ。アッシュカラーの長い髪がそよ風に靡いている。
キャップを被っていたものの、馨はそれが
早速見つけた喜びで、思わず彼女に駆け寄る。
「済みません、淀名和先輩!」
彼女は呼びかけに反応して振り向いたが──次の瞬間、馨に背を向けて一目散に逃げ出した。
学生達で賑わう中庭を、慌ただしく突っ切っていく。
「えっ。な、なんで?」
互いに顔くらいは認知していると思ったが、彼女はサークルの後輩に気づけなかったのだろうか。
馨は困惑しながらも彼女を追いかけた。
だが彼女はたこ焼きを気にしているらしく、逃げ足は遅い。
馨はすぐに追いつき、目の前に立ち塞がった。
「先輩、ちょっと待ってください。俺、
「こ、このたこ焼きは! あげないぞ!」
「え?」
淀名和は鬼気迫る表情で、手に持ったパックを馨から遠ざけた。
「列に間に合わなかったからって、奪いに来たんだろう!」
「は……? いや、違いますけど」
「あげないぞ! 一つも!」
「だ、だから違いますって」
繰り返して否定しながら、馨は早々に嫌な予感がしていた。
彼女は正真正銘「変な人」なのではないか、と。
しかし、かと言って投げ出すわけにもいかなかった。
かなり極端に言えば、馨が平和な学生生活を送るためには彼女が必要なのだから。
「じゃあ君は一体何なんだっ」
「えっと、俺のこと分からなかったですか?
「む? うーん……ああ。うむ、分かったぞ……うん」
頷きつつまだ彼女は首を傾げている。
本当に分かったのか怪しい様子だったが、気にしていては先に進まない。
「そうですか、よかった。俺は先輩ご自身に用があって声かけたんです。たこ焼きじゃなくて」
「何? 私に?」
「はい。どうしてもお話したいことがあって。今、少しだけ大丈夫ですか?」
「今か? そんなに大事なことなのか?」
「まあ、はい。そうですね。実は──」
馨が頷いて説明を始めようとすると、突然彼女はオーバーな身動きで数歩
「申し訳ないが、その気持ちには応えられないっ」
「え……まだ何も言ってないんですが」
「御免! 今の私に、うつつを抜かしてる暇はないんだ」
「あ、あの、何の話だと思ってます? 俺が言いたいのは──」
「皆まで言うな。私は音楽の方がずっと大事なんだ、甘酸っぱい色恋よりも」
「…………」
たこ焼きのパックをしっかり両手で持ち、彼女は苦々しい顔をしている。
馨は今すぐこの場から立ち去りたいと思ったが、かろうじて踏み留まった。
「えっと、先輩。よく分からないですけど、多分勘違いされてます」
「強がらなくていい。好きだと伝えたかったんだろう、私に」
「全然違います。バンド組んでくれって頼みに来たんです」
もはや丁寧な前置きを省き、馨は単刀直入に言った。
思いの外はっきりと言わなければ、話が遠い彼方へ飛んでいってしまいそうだったからだ。
「む? ……バンド?」
淀名和はそこでやっと先程までと違った反応を見せる。
「君と? 私が?」
「はい。同じ1年の百花
「ああ……あの子か。……なるほど」
「はい。俺もぜひ、先輩が宜しければお願いしたいと思ってます」
「んん、そうか」
真面目な様子で彼女は頷く。
そして不意に近場のベンチに腰かけると、たこ焼きのパックをそっと隣に置いた。
「一花。君もこっちに座ってくれ」
「あ、はい」
「このたこ焼きは盗るなよ」
「盗らないですよ……」
淀名和は革の財布から小さな紙を取り出し、ペンで何かを書き始めた。馨は黙ってそれを見守る。
裏にも何か書いたあと、彼女は顔を上げた。
「君の誘いを頭ごなしに
そう言って彼女が差し出した紙を、馨は受け取って見た。
アーティストと曲名、そして楽器の種類がいくつか書いてある。
「代表して君に、試験を課す。そこの指示どおりに曲を1週間練習してくるんだ。私はその成果次第で、誘いに応じるか決めよう」
「え? 代表って……俺だけですか。他のメンバーには?」
「私のところに来たのは君だ。だから君に課す」
「でもこれ、一人で熟せる曲数じゃ──」
「飲めないなら、残念だけど応じることはできない」
「……そんな」
「さっきも話したとおり、私には暇がないんだ」
そう言い渡されて、馨は考えを巡らせた。
もしもこの条件を飲まなかったせいで淀名和に断られたとしたら、百花は落胆するかもしれない。
彼女は馨のために「淀名和とバンドを組もう」と提案したのだ。
その気持ちは無下にはしたくないと思った。
つらい出来事を忘れるためにはきっと、たとえ難しいことでも《挑戦すること自体》が重要だ。
「……分かりました。やります」
悩んだ末に馨がはっきりそう言うと、淀名和は意外そうに目を
「そうか……そこまで私に恋愛感情を抱いてるのか」
「な、なんでそうなるんですか。違いますよ」
「仕方がないな。じゃあ、1週間後に部室で試験を実施しよう」
「試験は受けます。けど、好きとかではなくて──」
「結果次第ではバンドの誘いに加えて、告白も受けるぞ」
驚くほどに話が通じない。
閉口する馨に構わず、淀名和はたこ焼きパックを膝に乗せて少しはにかんだ。
「無事に私が告白にOKしたら、君にも毎度たこ焼きを分けてあげよう。私が『あーん』というものを直々にしてあげてもいい」
「いえ。遠慮しておきます」
「む……そうか? もち明太チーズ、苦手なのか」
「断ってる理由はそこじゃないです」
馨がはっきりそう言っても、淀名和はきょとんとしたまま首を傾げるだけだった。
そのあと馨は彼女に連絡先を教え、もう少し頻繁にメッセージを確認するよう伝えた。
やりとりに終始苦労したせいか、予想以上の達成感と疲労を感じたのだった。
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