第五十五話

 昼休みに入った直後の学生会館は、3階の食堂や1階の生協に向かう学生達でかなり混雑する。

 その入り口前にある列をなした屋台に、けいは独りやってきていた。

 のれんには大きく「たこ焼き」という文字。そしてデフォルメされた蛸のイラストがついている。


 ──目的は当然、淀名和よどなわ 夢舞ゆまに会ってバンドに誘うことだ。


 同席するはずだった百花ももかは用事で来られなくなってしまったが、この屋台が大学に来るのは週に一度である。

 願わくば今回の接触だけで、淀名和よどなわをバンドに加入させるところまで持って行きたい。

 馨はそう思いながら、人混みの中を見回した。


 するとその時、ちょうど列の先頭から人が一人出てきた。

 たこ焼きのパックを大事そうに両手で持つ、小柄な女性だ。


 シンプルな黒のTシャツにグレーのカーゴパンツ。アッシュカラーの長い髪がそよ風に靡いている。

 キャップを被っていたものの、馨はそれが淀名和よどなわだとすぐに分かった。

 早速見つけた喜びで、思わず彼女に駆け寄る。


「済みません、淀名和先輩!」


 彼女は呼びかけに反応して振り向いたが──次の瞬間、馨に背を向けて一目散に逃げ出した。

 学生達で賑わう中庭を、慌ただしく突っ切っていく。


「えっ。な、なんで?」

 

 互いに顔くらいは認知していると思ったが、彼女はサークルの後輩に気づけなかったのだろうか。

 馨は困惑しながらも彼女を追いかけた。

 

 だが彼女はたこ焼きを気にしているらしく、逃げ足は遅い。

 馨はすぐに追いつき、目の前に立ち塞がった。


「先輩、ちょっと待ってください。俺、warehouseウェアハウスの後輩の──」

「こ、このたこ焼きは! あげないぞ!」

「え?」


 淀名和は鬼気迫る表情で、手に持ったパックを馨から遠ざけた。


「列に間に合わなかったからって、奪いに来たんだろう!」

「は……? いや、違いますけど」

「あげないぞ! 一つも!」

「だ、だから違いますって」


 繰り返して否定しながら、馨は早々に嫌な予感がしていた。

 彼女は正真正銘「変な人」なのではないか、と。

 しかし、かと言って投げ出すわけにもいかなかった。

 かなり極端に言えば、馨が平和な学生生活を送るためには彼女が必要なのだから。


「じゃあ君は一体何なんだっ」

「えっと、俺のこと分からなかったですか? 一花いちはな馨です、warehouse部員1年の」

「む? うーん……ああ。うむ、分かったぞ……うん」


 頷きつつまだ彼女は首を傾げている。

 本当に分かったのか怪しい様子だったが、気にしていては先に進まない。


「そうですか、よかった。俺は先輩ご自身に用があって声かけたんです。たこ焼きじゃなくて」

「何? 私に?」

「はい。どうしてもお話したいことがあって。今、少しだけ大丈夫ですか?」

「今か? そんなに大事なことなのか?」

「まあ、はい。そうですね。実は──」


 馨が頷いて説明を始めようとすると、突然彼女はオーバーな身動きで数歩後退あとずさりした。


「申し訳ないが、その気持ちには応えられないっ」

「え……まだ何も言ってないんですが」

「御免! 今の私に、うつつを抜かしてる暇はないんだ」

「あ、あの、何の話だと思ってます? 俺が言いたいのは──」

「皆まで言うな。私は音楽の方がずっと大事なんだ、甘酸っぱい色恋よりも」

「…………」


 たこ焼きのパックをしっかり両手で持ち、彼女は苦々しい顔をしている。

 馨は今すぐこの場から立ち去りたいと思ったが、かろうじて踏み留まった。


「えっと、先輩。よく分からないですけど、多分勘違いされてます」

「強がらなくていい。好きだと伝えたかったんだろう、私に」

「全然違います。バンド組んでくれって頼みに来たんです」


 もはや丁寧な前置きを省き、馨は単刀直入に言った。

 思いの外はっきりと言わなければ、話が遠い彼方へ飛んでいってしまいそうだったからだ。


「む? ……バンド?」


 淀名和はそこでやっと先程までと違った反応を見せる。


「君と? 私が?」

「はい。同じ1年の百花 千恢ちひろもメンバーなんですが、分かりますか? ショートヘアの。あいつが特に、先輩と組むのを強く希望してるんです」

「ああ……あの子か。……なるほど」

「はい。俺もぜひ、先輩が宜しければお願いしたいと思ってます」

「んん、そうか」


 真面目な様子で彼女は頷く。

 そして不意に近場のベンチに腰かけると、たこ焼きのパックをそっと隣に置いた。


「一花。君もこっちに座ってくれ」

「あ、はい」

「このたこ焼きは盗るなよ」

「盗らないですよ……」


 淀名和は革の財布から小さな紙を取り出し、ペンで何かを書き始めた。馨は黙ってそれを見守る。

 裏にも何か書いたあと、彼女は顔を上げた。


「君の誘いを頭ごなしにねたりはしない。……でも、条件がある」


 そう言って彼女が差し出した紙を、馨は受け取って見た。

 アーティストと曲名、そして楽器の種類がいくつか書いてある。

 

、試験を課す。そこの指示どおりに曲を1週間練習してくるんだ。私はその成果次第で、誘いに応じるか決めよう」

「え? 代表って……俺だけですか。他のメンバーには?」

「私のところに来たのは君だ。だから君に課す」

「でもこれ、一人で熟せる曲数じゃ──」

「飲めないなら、残念だけど応じることはできない」

「……そんな」

「さっきも話したとおり、私には暇がないんだ」


 そう言い渡されて、馨は考えを巡らせた。

 もしもこの条件を飲まなかったせいで淀名和に断られたとしたら、百花は落胆するかもしれない。

 彼女は馨のために「淀名和とバンドを組もう」と提案したのだ。

 その気持ちは無下にはしたくないと思った。

 

 つらい出来事を忘れるためにはきっと、たとえ難しいことでも《挑戦すること自体》が重要だ。

 

「……分かりました。やります」


 悩んだ末に馨がはっきりそう言うと、淀名和は意外そうに目をしばたたかせた。


「そうか……そこまで私に恋愛感情を抱いてるのか」

「な、なんでそうなるんですか。違いますよ」

「仕方がないな。じゃあ、1週間後に部室で試験を実施しよう」

「試験は受けます。けど、好きとかではなくて──」

「結果次第ではバンドの誘いに加えて、告白も受けるぞ」


 驚くほどに話が通じない。

 閉口する馨に構わず、淀名和はたこ焼きパックを膝に乗せて少しはにかんだ。


「無事に私が告白にOKしたら、君にも毎度たこ焼きを分けてあげよう。私が『あーん』というものを直々にしてあげてもいい」

「いえ。遠慮しておきます」

「む……そうか? もち明太チーズ、苦手なのか」

「断ってる理由はそこじゃないです」


 馨がはっきりそう言っても、淀名和はきょとんとしたまま首を傾げるだけだった。


 そのあと馨は彼女に連絡先を教え、もう少し頻繁にメッセージを確認するよう伝えた。

 やりとりに終始苦労したせいか、予想以上の達成感と疲労を感じたのだった。

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