第七十九話

『──私達、《まだしてないこと》もあるし』


 千恢ちひろの言葉に、けいは良からぬことを期待した。

 しかし具体的には予想がつかない。つくはずもない。

 彼女はどこで身につけたのか、見たこともないような方法でたびたび馨を悦ばせようとするからだ。

 漠然とした妄想だけが次々溢れ、生唾を飲み込む。


 すると、千恢は満足そうに笑みを深くした。


「ふふ。物欲しそうな顔して、可愛い」

「! べ、別に。そういうわけじゃ……」

「嘘だぁ。本当はすごく期待してるくせに」


 顔を覗き込む愉しげな眼差しから目を逸らしたが、もう既に見抜かれているのだから無意味だ。

 

「知りたいなら教えてあげる」


 彼女はそう言って馨の首に腕を回して抱きつき、耳元に口を寄せた。


「私達がまだしてないことっていうのはね──

 

 《デート》、だよ」


「……え?」


 いやらしさなど特にない、さっぱりとした短い単語。

 

 馨は思考の切り替えに手間取って目をまたたかせた。

 すると千恢は身体を離し、口元に手をやって悪戯っぽく笑う。


「ね? まだ一度もしてないでしょ?」

「……だ、騙したな」

「え〜? 君が勝手にえっちなこと想像しただけじゃんか?」

「お前が紛らわしい言い方するから……!」

「確かに『私のことしか考えられなくなっちゃうかも』とは言ったけど、それも普通にデートの話だも〜ん。二人でお出かけして一緒に過ごすんだから、間違ってないでしょ?」


 したり顔とわざとらしい口調がしゃくに障る上に、羞恥心を煽ってくる。

 だが、これ以上躍起になって取り繕おうとしても彼女を愉悦に浸らせるだけだと思い、馨は無視してそっぽを向いた。


「あれっ、怒っちゃった?」


 彼女はすぐに腕にしがみついて顔を覗き込んでくる。

 遠慮なく押しつけてくる胸の柔らかさすら憎たらしい。


「意地悪してごめんね。お詫びに今えっちなことする?」

「レポートやらなきゃいけないんで、いいです」

「そんな怒んないでよぅ。君のおねだり何でも聞いてあげるから……ね?」

「つーかお前、早く風呂入れよ。寝るの遅くなっても知らねえぞ」


 冷たく言って睨みつけるが、彼女は落ち込んだりせずにむしろ顔を輝かせた。


「わあ。それって『お風呂の後しよ♡』ってお誘い?」

「は? ち、ちげえよ」

「も〜素直じゃないなぁ。じゃあちょっと待ってて♡」

「だから違うって」


 彼女は聞く耳を持たず蠱惑的に微笑んでウインクすると、軽い足取りでリビングを出て行ってしまう。そして幾許いくばくもしないうちにシャワーの音が聞こえてきた。


 馨は一旦呆れて首を振ったあと、千恢の言っていた言葉について少し真面目に考えた。

 確かにデートと言えるようなことは、出会ってからまだ一度もしていない。その先にはとうに進んでしまっているのに。


 彼女は馨が実家に帰る憂鬱を感じさせないためにデートを提案したのだろうが、もっと恋人らしいことをしたいという気持ちも抱いていたのかもしれない。

 後でどこへ行きたいのか希望を聞いてみよう──そう思った時、馨は既に自分が彼女のことしか考えていないのに気がついた。

 

 ◇


「で、さっきの話だけど……お前はどっか行きたいとこあるの」


 間接照明だけが点いた寝室のベッドの上。

 馨は自分に抱きついてじっとしている千恢にそう尋ねた。

 一瞬だけ間があってから彼女は顔を上げたが、少し眠そうな表情をしていた。


「ん……? 行きたいところ? いっぱいあるよぉ。でも今回は大学終わりに行くことになるだろうから……時間的には夜ご飯食べて、街中ぶらぶらできれば十分かなぁ?」

「まあ、確かにそうか」

「うんうん〜。あっ、せっかくなら東大路ひがしおおち中央公園行きたいかも……駅前にある大きな公園。知ってる?」


 ──東大路中央公園。

 その単語を聞いて馨の脳裏に蘇ったのは、ライトアップされた噴水の水飛沫と安心院あじむ 寧々ねねの笑顔だった。

 彼女に抱いていた深い感情はもう残っていないが、思い出せば心に薄いもやくらいは生じる。


「……馨?」

「ああ、うん、知ってる。噴水あるとこだろ」


 わざわざ話す必要はないと思い表情を取り繕ったが、千恢は見透かすように馨の目を見つめて首を傾げた。


「もしかして、何か嫌な思い出でもある?」

「なんで? 別に、ないけど」

 

 彼女の勘の良さに内心焦る。

 きっと自分が上手く取り繕えなかったからに違いないが、それでもこの話は口にしたくなかった。


 すると千恢は不意に身体を起こし、真上からじっと馨を見下ろした。


「何かあるなら話してよ?」

「……いや、何もないって」

「君って分かりやすいけど、いつも自分のことは話そうとしないね。どうしてなのか分からないけど……私、君の何かを否定したりしないよ? 絶対に」

「…………」


 馨は胸の内がざわつくのを感じた。

 確かに己の個人情報も感情も、人に開示するのは好きではない。しかしその理由までは考えたことがなかった。

 いつからそうだったろうかと今までの人生を振り返ろうとすると、なぜか少し息苦しくなる。


「ただの秘密主義っていうのもあるんだろうけど、黙るときの君の表情、いつもなんとなく寂しそうなんだよ。どんな話題でも。気がついてた?」

「え? いや……別に、寂しいとは思ってない、つもりだけど」


 思い当たる節がなく素直にそう答えると、


「……ふうん」


 千恢は悩ましい顔をして首を傾げたあと、覆い被さるように再び抱きついてきた。


「まあ、急かしたりはしないよ。これから少しずつ分かっていけばいいことだからね」

「あ、ああ……うん」

「公園もさ、私が思い出を上書きしてあげるから、二人で行こうよ」

「……うん。別に俺も、行くのは嫌じゃないから」

「そう? よかった」


 耳元の囁き声が嬉しそうな声色に変わる。


「ご実家に行くのは金曜の夕方って言ってたよね。どうせなら、デートはその前日にする? 私との濃〜い時間を過ごした記憶が新しいうちに、ご実家に行けた方が良さそうじゃない?」


 馨は今この瞬間も十分濃い時間だと思っていたが、あえて伝えずに彼女の提案に首肯するのだった。


 ◇


 翌日、火曜の昼休み。

 馨は部室ではなく講義室で一人昼食を摂っていた。


 7月も下旬に差し掛かり、もうすぐで夏季休暇が到来する。

 それはつまり──その直前に前期定期試験が待ち構えているということだ。

 しかし、馨の週末は帰省で潰れる。

 サークルで同級生や先輩と共に過ごしているとその事実を忘れてしまいそうになるため、空き時間を勉学に費やそうと思ったのだ。


 周りの席には、午後一番に同じ講義を受ける英文学科の学生達がいる。

 それなりに騒がしいが、部室よりはずっとましだ。


 ノートを読み返し、ひたすら内容を頭に入れていると──突然、スマートフォンが短く振動した。


 MINEの通知が来ている。


 すぐにアプリを開くと、トーク画面の一番上にあったのは千恢のアイコンだった。

 特に何も身構えずに、馨はそれをタップする。


《ごめんね馨、先に謝っておく♡笑》


「……?」

 

 メッセージはそれだけだった。

 一体何の話だろうか。

 首を傾げつつ、とりあえず返信をしようと本体を手に取った、その瞬間。


「たのもーっ!」


 威勢のいい声と共に、講義室に小柄な人物が飛び込んできた。


一花いちはな 馨はどこだ!? ここにいると聞いて来たんだが!?」

 

 さほど広くはない講義室に《彼女》の声が響き渡る。

 アッシュカラーのロングヘアに黒のキャップ。

 掲げた手には、たこ焼き屋のロゴが入ったビニール袋。


「おーい、一花! どこにいるんだ! いたら返事をしてくれ!」


 よく見なくても当然それは、淀名和よどなわ 夢舞ゆまだった。

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