第七十八話
彼の言う「実家」とは勿論、父方の祖父母や曽祖父の住む家のことだ。毎年8月に「シラハオリ」に参加するために訪れ、その度に強い心理的圧迫を受けさせられている場所である。
馨の頭の中では「どうして」という疑問と絶望が巡っていた。創と話せたことで舞い上がっていた気持ちは、瞬く間に消沈してしまっていた。
「な、なんで? シラハオリは来月だろ。何しに行くの?」
恐る恐る尋ねると、創はどこか気まずそうに唸ったあとで答えた。
『……まあ早い話、
「何だよそれ……じゃあ強制召集じゃん」
『ああ、そうだな。拒否権なしのやつ』
「……マジかよ。めちゃくちゃ嫌だ……」
『まあその気持ちはよーく分かる。でも考えてみろよ。前倒しになったことで、大学最初の夏休みが潰れなくて済むんだぜ?』
創には気楽な口調で諭されたが、あの場所での息苦しい時間を思うと、彼のように前向きに考えるのは難しかった。
「週末って言ってたけど……何日向こうにいればいいの」
『うーん、どうだろうな。金曜の夜から行く予定だが、俺らは移動があるから土曜の夜か日曜の日中には退散できるんじゃねえか?』
「ああ、そう……」
憂鬱な気持ちで溜め息をついたちょうどその時──
ドアが開いて、帰宅した
彼女は目をぱちくりさせながら、黙ったまま手を小さく挙げる。
馨も何も言わずにそれに応えた。
『金曜の夕方迎えに行く。せめて二人で、楽しく里帰りしようや』
「……行き先のこと考えたら、素直に楽しめない」
『まーそう言うなや。あ、飛行機はもう取ってあるからその辺の心配は要らねえぜ』
「そうなんだ……サンキュー」
『おう。そんじゃ、迎えに行く時間はまた改めて連絡すっから』
「うん、分かった」
軽く挨拶を交わして、通話を切る。
久しぶりの会話は盛り上がることもなくすぐに終わってしまった。それもこれも全て、前倒しになったあの行事のせいだ。
馨は気持ちが晴れぬまま、立ち尽くしている千恢の方を見た。
「……おかえり。バイトお疲れ様」
「あ、うん、ありがとぉ」
彼女は少しまごついた様子で返事をすると、ローテーブルを挟んで馨の正面に座った。
「それより今の電話……今朝言ってた叔父さん、だよね?」
「うん。そうだけど」
「あんまりいい話じゃなかったの? 朝は楽しみにしてた感じだったのに、今すごく浮かない顔してるから」
「ああ……いや、うん」
どこまで話したらよいのか分からず、ただ生返事をする。
週末に帰省することは伝えるべきだと思ったが、その理由を説明するのは激しく躊躇われた。
慣れたはずの自分ですら薄気味悪く思っている「家の
それに、親からも「周りには口外するな」と言われている。
「今週末、父方の実家に行くことになってさ」
「そうなの? 何かあったの?」
「いや。毎年8月に行ってるんだけど、それが前倒しになったってだけ」
「なんだ、良かったぁ。……でも君、今の電話で『行き先のこと考えたら楽しめない』って言ってたよね」
「え……いや」
「ご実家、行きたくないの? 嫌なことでもあるとか?」
「それは……」
戸惑いながら彼女の目を見返すと、彼女は困ったように微笑んだ。
「図星? 話したくないなら無理強いはしないけど、愚痴ならいつでも何でも聞くし、相談にも乗るよ? 解決するかは別として、話してスッキリすることもあるんだから。ね」
その笑顔と眼差しを見ていると、不思議と胸に渦巻く暗い感情を打ち明けてもいいのではないかという気持ちになる。
彼女の優しさに甘えたくなっているのだろうか。
そんなことを漠然と思いながら、馨は自然と口を開いていた。
「正直、父方の実家はあまり好きじゃない」
「そうなんだ……おじいちゃんが恐いとか、誰かと仲が良くないとか?」
「まあ、そういうのも大いにあるし……毎年、意味不明なことさせられるんだよ。それが地味に嫌なんだ」
「意味不明なことって?」
彼女は不思議そうに首を傾げる。
話したら嫌われるかもしれない──その懸念は完全には失せなかったが、話したいという願望の方がすっかり勝ってしまっていた。
「毎年の恒例行事って感じなんだけどさ……隣の家の人が管理してる社殿みたいな建物に親戚皆で行って、長い時間座ってお経聞いてんの。まあ、厳密にはお経とも違うかもしれないけど、実際何なのか俺も分からなくて」
「えぇっ? そ、それってもしかして……変な宗教、とか?」
途端に彼女は縮こまり、不安げに両腕で己を抱く。
相談に乗ると言った時の余裕はどこへやら、という様子だった。
「いや、多分違う……と思うけど、何とも言えないんだよ。今まで一度も詳しい説明されたことないから」
「そ、そうなの? なんで? 誰も教えてくれないの?」
「うん。成人したら話す、としか。いつも集まったら大人だけで話し合いしてるから、こっそり盗み聞きしようとしたこともあったけど……見つかってつまみ出された」
「えーっ、なんか恐いよっ。ほんとに危ない宗教だったりして……!」
彼女の言うとおりである可能性も低いわけではないが、それにしては引っかかる部分も確かにあった。
「でもさ、宗教だとしたら普通、何の神様を
「ん? う〜ん……そう言われてみればそう、なのかなぁ」
「昔かなりしつこく親とか親戚に聞いて回ったけど、マジで何も教えてくれなかったし。そもそも……あの人達がカルトに
「そ、そうなんだ。……んじゃあ、違うのかな?」
千恢は再び不思議そうに首を傾げて唸る。しかし、他の考えはなかなか浮かばなかったらしい。
馨はテーブルに頬杖をついて嘆息した。
「まあ、どちらにしても行かなきゃいけないのは変わらないからな。仕方ない」
「いやいやっ、仕方ないって……私恐いけどっ? だって、君も事件に巻き込まれちゃうかもしれないし……」
薄気味悪い話をしたにもかかわらず、千恢は馨に白い目を向けることなく身を案じているようだった。
それだけでも少しか気持ちは楽になる。
「だったらとっくの昔に巻き込まれてると思う。だから多分、そこは心配ない」
「そうなの? そうかなぁ?」
「俺はそれより、あの人達と何日も一緒にいて、そんな意味不明なことしなくちゃいけないのが嫌なんだよ。ただ、それだけ」
「そ、そっか……。それで、電話中あんな顔してたんだね。うーん……」
彼女はそう言うと、悩ましげに眉を寄せて考え込み始めた。
一体何を悩んでいるのか分からなかったが、ひとまずそれを見守る。
それから数十秒後、
「よし! いいこと考えた!」
彼女は突然手を打ち、ローテーブルを回って馨の目の前にやってきた。
「ご実家に帰るまでの数日間、せめて君が憂鬱を感じないように、私がたっぷり構ってあげるね」
「……え」
「ちょうど私達、《まだしてないこと》もあるし」
「し、してないこと?」
どぎまぎしながら
「分かんない? いっぱいあるよ。……もう私のことしか考えられなくなっちゃうかも♡」
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