第六章 触発

第七十七話

 月曜の朝。

 けいはベッドの中で不意に目を覚ました。

 一瞬前まで心地良い夢を見ていた気がするが、思い出せない。

 ぼんやりとしながら枕元にあったスマートフォンで時間を確認する。

 ──7時。まだ少し眠れる。

 そう思った時、画面下にあるメールのアイコンに赤い通知が一つ付いているのに気がついた。


 今や大抵の友人からの連絡はMINEで来る。

 馨は送り主が誰なのか気になり、アイコンをタップした。


 未読メッセージ欄に表示されている名前は《一花いちはな そう》。

 同じく道外に住んでいて、音楽関係の仕事をしている叔父だ。残念なことに引っ越し祝いにギターを貰って以降、一度も会っていなかった。


「え、創さん……」

 

 驚きと喜びで思わず声を漏らし、慌ててメッセージを開く。


〈けい坊〜元気してるか〜? 仕事で近くまで来たから

 お前んち寄ったんだけど、どっか出かけてんのかな。

 ちょっと用もあったし明日の夜また連絡するわ〉


 いつ家に来たのだろうかと送信時刻を見ると、昨日の夜8時頃だった。その時間、馨は淀名和よどなわの試験を終え、千恢ちひろと共に彼女の家に帰っている最中だったはずだ。

 昨夜はあれからスマートフォンには一切触らなかったため、気づくわけもない。

 

 しかし、ともあれ今夜もう一度そうから連絡が来る。両親よりも実の姉よりもずっと慕っている彼と、久しぶりに話ができるのだ。

  

 そんな期待に心を躍らせていると──すぐ傍で小さく唸り声が聞こえ、腕の中で身動みじろぐ気配があった。


 馨は自分の胸の辺りを見下ろし、彼女に回していた腕をそっと解いた。

 彼女はうっすら目を開けて馨を見上げ、


「んー……? あ、もう起きてたんだね」

 

 と眠たげな甘い声を出す。

 彼女に間近で見つめられると途端に今の状況を面映おもはゆく感じ、馨は視線を泳がせた。


「ああ、うん。少し前に。……おはよう」

「おはよぉ……」


 千恢は目を擦って、再び馨をじっと見た。

 

「それより君……今何か言ってなかった? 〇〇マルマルさんって、誰か呼んでたような気がしたんだけど」

「え……ああ。創さん、って言ったかも」

「創さん? だあれ? その人がどうかしたの?」


 興味津々に尋ねながら彼女は身体を擦り寄せてくる。

 馨はその肌の感触と温もりに激しく気を取られたが、何とか平静を装って彼女の問いに答えた。


「……俺の叔父さん。昨日俺の家に寄ったみたいで、今日の夜また連絡くれるってメール来てたんだよ」

「へえ、叔父さんも近くに住んでるの?」

「違う県だけど、割と近い。仕事でこっち来てたらしい。……もう帰ったのかな。久しぶりに会いたかったな」

「わぁ〜。君もそんな素直なこと言う時あるんだねぇ」


 千恢の声はやけに感嘆した様子だった。

 馨はそれくらいあるに決まっている、と返しかけたが、確かにあまりないかもしれないとも思った。


「……創さんには、昔から世話になってたから」

「そうなんだ。どんな人なの? 気になる」

「基本ふざけてるけど、優しい人だよ。理不尽なことは言わないし、父さんに禁止されてた楽器も、隠れて教えてくれたし。創さんがいなかったら、今頃音楽はやってなかったかもしれない」

「そっか……。じゃあ私、叔父さんのお陰で君と会えたようなものなんだね。それは感謝しなくちゃ」


 そう言って、彼女は馨の首元に両腕を回した。

 そしてブランケットの中で足をゆっくりと絡ませてくる。


「今日の夜、叔父さんといっぱいお話できるといいね」

「うん……って、な、何してんだよ。そろそろ起きないと、一講間に合わなくなる」

「あと少しだけ。だめ?」

「だ、駄目だって」

「つれないの……じゃあ、最後に一回キスしてほしいな」


 彼女は寂しそうな顔をしてから、強請ねだるように目を閉じた。

 飽きるほど重ねたはずの唇に視線をやると、再びどうにも抗いがたい衝動が湧き上がる。

 馨はそんな己の理性の弱さを憂慮せずにはいられなかった。


 ◇


 午前8時45分。

 講義室に入っていつもの席に向かうと、先に来ていた鉈落なたおちが不思議そうに目をしばたたかせた。


「おはよう、馨。珍しくギリギリだな。来ないかと思った」

「ああ、うん。ちょっと寝坊してさ」


 最近彼に嘘ばかりついていることを馨は自覚していたが、千恢ちひろとの関係を打ち明けるのは困難になっていた。


「そっか。昨日の試験で相当疲れたんじゃない? 相手は淀名和よどなわ先輩だしね」

「それは……確かにそうかも」

「まあ、何はともあれ合格おめでとう。俺もまた楽しみが増えて嬉しいよ」

「ありがとう、鉈ち。こっちのバンドでもよろしく」

「俺の方こそ」


 温和で理知的な彼になら、千恢ちひろのことを話してもいいのではないか。

 馨個人としてはそう考えていたのだが──今朝、やっとベッドから出て外出の支度をしていた時、千恢がふと言ったのだ。


『ねえ、馨。私達が付き合ってること、今はまだ誰にも言わないでおいてね』

『……なんで?』


 馨とて誰彼構わず話して回るつもりはない。しかし《誰にも》とまで言われるとは思っていなかった。


『もしサークルで広まったら大変でしょ? 先輩達に知られたらイジられるだけじゃ済まないし。……秘密にしてた方が、色々と都合がいいから』

『? ……まあ、そうか』

『うん。誰が口を滑らせるか分からないから、与那城よなしろくんとか鉈落くんにも内緒。ね?』


 彼女の言葉に含みを感じつつも大きな異論はなかったため、馨はひとまず了承した。

 友人に隠し事をするのは少し心苦しいが、平穏を選んだというわけだ。


「にしても淀名和先輩と百花ももかさんって、ほんと不思議なメンツだよね」

「え、ああ。そうだな」


 馨が我に返って応えると、彼は楽しげな顔をしたまま言葉を続けた。


「あの二人の会話、全く想像つかないよ。……まあそれ言うなら、一番謎なのは馨と百花さんの組み合わせだけど」

「えっ? な、俺?」

「うん。前も言ったけど、二人そこそこ仲が良くなさそうだからさ。どんな風に話すのか、何気に興味あるんだ」


 そう言われて馨は内心冷や汗をかいた。勘の鋭い彼に注視されたら、あっさり関係を見抜かれる可能性がある。

 千恢に伝えて示し合わせておかなければと、表情を取り繕いながら密かに思うのだった。


 ◇


 その夜、馨は一人で千恢の家にいた。

 彼女はまだアルバイトから帰っていない。

 本当は試験も終わったのだから自宅に戻るべきなのだが、昨夜言い出すタイミングを逃したまま、今に至る。

 

 夕食を既に終え、テレビも点けずに講義で出された課題に着手していた。しかし時折スマートフォンが気になって、ちらちらと目を向ける。

 待っているのはそうからの連絡だった。

 彼はやはり電話をかけてくるらしい。直接会えないのは残念だったが、久々に声を聞けるだけでも十分だと馨は思った。


 ──しばらくして、待ちに待った着信が入る。

 馨はすぐさま本体を手に取り、表示されている名前に心を弾ませた。


「もしもし、創さん?」

『よお、けい坊。元気してたか〜?』


 応答すると、耳に馴染むかすれ声が聞こえてくる。

 馨は自然と顔を綻ばせて返事をした。


「うん、元気。創さんは?」

『俺か〜? 俺はまあ、ぼちぼちってところだな』

「そっか。せっかくなら会いたかったけど、もう近くにはいないんだよな?」

『おう、残念だがもう家に帰ってきちまったわ』

「また仕事でこっち来たりしないの?」

『ん〜……しばらくはねえなぁ。それより坊、大学はどうよ? 楽しいか?』

「……うん。楽しい」


 そう答える脳裏にさまざまな記憶が去来して、馨は一つ大事なことを思い出した。


「そうだ、実は創さんに報告したいことがあったんだ」


 馨が道外の大学に行くと決まったとき、創は『親の目もねえし、好きなだけ音楽やれるぞ。良いサークルとかあるといいな』と喜んでくれていた。

 そんな彼には是非とも、warehouseウェアハウスに入部したことを伝えたかったのだ。


『報告? 何よ、良い話か?』

「勿論。本当は来月のシラハオリで顔合わせるときに言って驚かせようと思ってたんだけどさ。せっかくだから今──」


 うずうずしながら馨がそこまで言いかけると、


『あー、坊。だとしたらその報告、あと少し取っとけよ』


 創は少し沈んだ声で言った。


「ん? ……なんで?」


『俺とお前な──実家あっち行くことになったから。そんときにその嬉しい報告、聞かせてくれや』

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