第七十六話

 暗がりから現れた人物を見て、けいは思いがけず目をみはった。


「──百花ももか?」


 そこにいたのは、紛れもなく百花 千恢ちひろだった。

 彼女は握り締めた手を胸に当て、安堵したように息を吐いた。


「よかった、会えた……!」

「お前、なんでここにいるんだよ。バイトは?」


 事態が飲み込めず困惑しながら訊くと、彼女は恥ずかしそうに目を泳がせた。


「店長にダメ元で『一生のお願い』って言って、今日は上がらせてもらったの。試験の結果は、やっぱり直接会って聞きたいって思ったから……」

「だからって、そんな無茶しなくていいだろ」

「だって……淀名和よどなわ先輩のことは、元は私が提案したことだったから。結果がどうだったとしても、君と一緒にそれを受け止めたかったんだよ」


 そこで一度言葉を区切って、彼女は緊張気味に馨を見上げる。

 その目は中庭の街灯の光を受けて潤んでいた。

 

「ねえ、それで……試験は? どうだった?」


 何はともあれ。

 不安そうな彼女に良い報告ができることが、馨は素直に嬉しかった。

 まじめな顔をしようとしたが、取り繕いきれない。


「うん。合格だった。先輩、バンドやってくれるって」


 そう告げると、彼女は一瞬茫然としてから


「……わあぁっ!? やったぁーっ!」


 笑顔を弾けさせてその場で飛び上がった。

 静かな夜の中庭に、彼女の嬉しそうな声が響く。

 無邪気にはしゃいでいる姿を見て、馨も頬を緩めた。

 

 ひとしきり喜んだあと、彼女は再び馨に向き直る。

 そしてはにかむように微笑んだ。


「頑張ったね! おめでとう、一花いちはなくんっ」

「うん。百花のお陰で乗り切れた。ありがとうな」

「そんな……私は何も特別なことしてないよ? 君が前を向こうとして、自分で努力したから、こうやって、結果を──」


 そこまで言うと、不意に彼女は口を噤んで目を伏せた。

 よく見ると唇を噛み締め、目をまたたかせている。まるで涙を堪えているような仕草だった。


「……百花?」

「だ、大丈夫、君の晴れやかな顔見てたら、急に胸いっぱいになっちゃって……。君が前に進めて、ほんとに、良かった」


 感極まったように言って再び彼女は黙り込む。


 その姿を見た馨は、改めて彼女を愛おしく思った。

 言葉では言い表せないくらいに強く。


 気づけば一歩近づいて、俯き縮こまっている身体を抱き締めていた。


「えっ、一花くんっ?」


 彼女が慌てて身動みじろいだことで、馨はすぐに我に返って身体を離した。


「ご、ごめん。これはその……つい、勢い余った」


 咄嗟に謝ったものの、直接触れ合ったせいで試験の間は忘れていた《一番の気がかり》を思い出してしまっていた。

 月曜には答えを出す──

 彼女はそう言っていたが、馨はもうこれ以上自分の恋情を抑えきれないと感じていた。


「……あのさ、百花」

「! なっなに?」

「一昨日の話、月曜あしたにはって言ってたけど……今はまだ、答え出ない?」


 思い切って訊ねると、百花はばつが悪そうに視線を逸らした。


「え、えっと……まだ、それは」

「俺は、百花が今ここに来てくれたのも嬉しくて、やっぱりすごく好きだなって思った。急かしたくはないけど……これ以上は待てない、っていうのが本音」

 

 彼女は馨の言葉に狼狽えているようだった。

 目を合わせないまま頬を赤らめて、


「……待たせちゃって、ごめんね」


 ぽつりとそう言った。


「本当はね、私、自信がないの……から」

「何も、って……どういう意味だよ」


 意味が理解できず尋ねると、彼女は小さく溜め息をついた。


「何も持ってないっていうのは、そのままの意味。空っぽな人ってこと。そのせいで君に嫌われたらすごく悲しいから……だから、『形だけの付き合い』とか『友達でいよう』って、ずっと提案してたの」


 何が理由で彼女が己にその評価を下しているのか、馨には分からなかった。

 彼女に対して、そんな風に思ったことなど一度もないからだ。

 大切な人のために自分が傷つくことも厭わず、心から喜んで涙を流すことのできる人間が《何も持っていない》わけがない。


「きっと、私じゃ君を幸せにしてあげられない」


 彼女は寂しそうな声音でそう言う。


 馨はその言葉を聞きながら感じていた。

 自分にだって彼女を必ず幸せにできる保証などない、と。

 あるのは幸せにしたいという、心からの想いだけだ。

 

「……でも俺のこと、好きでいてくれてるんだろ」


 馨の問いかけに、彼女は悲しげに微笑んだ。


「うん、大好きだよ……だから、だから君は、もっと素敵な人と幸せになってほしいの」


 茶色の瞳からぽろぽろと涙が溢れ出す。

 馨は胸が苦しくなり、すぐにでもその涙を止めたいと思った。

 

 意を決して手を前に伸ばし、冷たい頬に触れる。

 そして少し身を屈めて──

 呆気に取られる彼女に優しく口付けた。 


 ほんの数秒だけそうして唇を離すと、


「……い、一花、くん……」


 彼女は熱に浮かされたようにほうけた眼差しで馨を見ていた。

 馨はそんな彼女を見つめ返して言った。


「百花。好きだと思ってくれてるなら、これからも俺と一緒にいて」

「……でも、でも、私は……」

「俺は、お前と幸せになりたいから」


 遠くに立つ研究棟の窓明かりが、一度瞬きした彼女の瞳を星空のように煌めかせる。


 彼女は溜まった涙を揺らして黙っていたが、

 

「うん……、分かった……私、君と一緒にいる」

 

 やっとか細い声でそう言った。

 馨がもう一度きつく抱き締めると、彼女も躊躇いがちに腕を伸ばしてそれに応えた。



 ◇❀


 とうに見飽きたはずの帰路は、右手に百花の手の感触があるだけで全くの別世界に見えた。

 大学前の暗くて視界の悪い並木道も、無機質な地下鉄の車内も、彼女が隣にいれば安らかで心地よい。


「えっと……ちょっと遅くなっちゃったね。一花くんは明日、朝から講義?」


 まだどこか恥ずかしそうに、彼女が語りかけてくる。

 二人は地下鉄を降りて住宅街を歩いていた。

 

「うん。俺は朝から五講まで全部入ってる」

「えっ……週初めにそれは辛いね。ここ数日は練習であんまり寝られなかっただろうし、今日は早めに休まないとね」

「……明日、寝坊しなきゃいいけど」

「大丈夫だよ。私、起こしてあげるから」


 馨は小さく笑う彼女に見惚れながら、これから先もその笑顔が見られることを幸福に思った。


 

 他愛もなく会話をしている間に、彼女の家に到着する。


 彼女がドアを開け放つと、この1週間で慣れ始めていたはずの香りに、馨は再び眩暈を覚えた。

 息を吸うたびに何かを煽り立てられるようで、胸の鼓動も速まっていく。


 恋人同士なのだから何も後ろめたく感じる必要はないのだが、それでも馨はそんな自分を恥ずかしく思わずにはいられなかった。


「一花くん……? どうかした?」


 廊下の途中で立ち止まった百花が尋ねてくる。


「いや、別に。何でもない」


 笑ってごまかし、靴を脱いだところで──

 彼女は玄関の方へ引き返してきた。

 触れられる距離まで来て、まっすぐに見つめてくる。

 不思議と目を逸らせなかった。


「百花……?」

「……一花くん」


 不意に彼女は背伸びをし、馨の首元にぎゅっと抱きついた。

 柔らかい身体が押し当てられて、辺りに漂う甘い香りが一段と濃くなる。


「え? な、何して──」


 馨は彼女を受け止めて問うたが、彼女はそれには答えず至近距離で見つめた。


「ねえ……馨。千恢ちひろって、呼んで」


 そっと囁かれたのは、あの夜と同じ言葉だった。

 当時の苦しさを思い出してどきりとする。

 しかしもう、それを拒んだり躊躇ったりする必要はなかった。

 これからは彼女に身を委ねても構わないのだから。


「……千恢」


 切ない瞳を見つめ返してその名を口にすると、彼女は満ち足りたような溜め息をついた。


「嬉しい……、また呼んでくれたね」


 そう言って愛おしげに顔を寄せ──馨に口付ける。

 しっとりとした唇は緩慢に何度か重ねられたあと、小さく音を立てて離れていった。


 彼女は再び目を合わせて、恥ずかしそうに微笑む。

 

「馨……お願い。今夜はずっと、私の傍にいて。たくさん好きって言って……君の思うままに愛して」



 ──その後はただひたすら、千恢の願ったとおりに過ごした。

 初めて互いを求めた時のような物悲しさは、もうそこにはない。

 ようやく想いに応えられた喜びを胸に刻みながら、馨は朝を迎えるまで、ずっと彼女を抱き締めていた。






────第六章 触発 へ続く────






❀❀❀以下はお知らせでございます。❀❀❀


ここまで拙作を追いかけてくださっている読者の皆様、

誠にありがとうございます。


二つだけお知らせがございまして、

まずは次週の5/15(水)は更新お休みとなります。

そして、近日中に以前作ったような

登場人物まとめや用語集をお出しできたらと思っております。ぜひお楽しみに。


それでは、今後とも宜しくお願い致します❀

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