第七十五話
翌日の午後6時45分。
辺りは夕日で橙色に染まっている。日曜日の夕方ともなれば、学生達もあまりいない。
正面入り口から入ってすぐのところには、掲示板の傍にセキュリティーロッカーが見えた。
本体に赤地に白で「使用禁止」と書かれたテープが貼り付けてある。どうやら淀名和の言っていたことは本当だったらしい。
部室が近づくにつれ、さすがに緊張が増す。だが馨は、今朝アルバイトに行く直前に
『君なら大丈夫。隣で見てた私が言うんだから、間違いないよ』
ここ数日のどこか気恥ずかしそうな態度ではなく、悠然とした本来の彼女がそこにいた。
過剰に激励されたわけでもないのに、不思議と自信が湧いたのを覚えている。
彼女の言うとおり、きっと大丈夫なはずだ。
あっという間に部室に辿り着いて扉の前に立つと、息を整えてからレバーを掴んで押し開けた。
16畳ほどの室内は──いつもと様子が違っていた。
思わず入口で立ち止まり、その光景を眺める。
窓は黒いカーテンで閉め切られ、天井の蛍光灯は全て消え、奥に常備してある簡易ステージだけが暖色系のライトで照らされていた。
古びている楽器達が、艶々と輝いているように見える。
「おお! 来たか、
マイクスタンドの辺りに立っていた淀名和が振り返り、声を上げた。
「暗くて済まない、ライブハウスと同じ環境にしたくてな! 準備は整ったから、いつでも始められるぞ!」
「はい。今日はよろしくお願いします」
馨がやっと靴を脱いで部室に入ると、淀名和はステージから下りて近寄ってきた。
「どうした? 元気がないな。緊張してるのか?」
「緊張はしてますけど……あのステージが本来の役割果たしてるの、初めて見たなと思って」
「ああ、いつもは鞄置き場か椅子代わりの台だもんな! でも、年に一回はここでちょっとしたライブもするんだぞ?」
「へえ、そうなんですか」
馨は何となく自分が淀名和と共にそこに立っているのを想像し、まだ受かってすらいないのに胸を躍らせた。
「さて、じゃあ演奏の順番なんだが……確か指示はこれだったよな?」
淀名和は部室の隅のホワイトボードを引っ張ってきて、適当なペンを掴んで走り書きをした。
『
『未確認生物→ギター・弾き語り』
『神楽→ギターボーカル』
『再生→ベース』
「……?」
馨はその文字列になぜか違和感を覚えた。
渡されたメモと順番が違うからかと思ったが、気になるのはそこではない。かと言って割り当てられたパートが違っているわけでもない。
ただ、ずっと見ていると漠然と胸騒ぎがしたのだ。
緊張しているせいで過敏になっているのだろうかと思ったが、定かではない。
「キーボード、スイッチを入れればもう点くぞ?」
「! あ、はい」
淀名和の声で我に返る。彼女はステージ正面に移動させたソファに腰かけていた。
馨がキーボードの前に行くと、彼女は告げた。
「さあ。思う存分、君の想いの丈を私にぶつけてくれ!」
──演奏を聴いている間の淀名和の表情はいつになく真剣で、まるで別人だった。
腕を組んでソファに浅く座り、じっとステージを見据えている。
しかし、馨は演奏を始めてすぐに緊張を忘れていた。
どの曲を演っていても、百花のことが頭に思い浮かんでいたからだ。彼女に聴かせたように歌って楽器を爪弾けば、むしろ楽しいくらいだった。
この1週間、彼女は演奏や歌を褒めてくれた。包み隠さない言葉に照れくさくなったが、それが自信になっていたのも確かだ。
両親に黙って叔父のスタジオに入り浸っていた頃から音楽は好きだったが、百花のお陰でもっと楽しく感じられるようになるのだろう。
そう思うと、彼女には感謝してもしきれなかった。
◇
全ての曲を演奏し終えると、淀名和は険しい顔のままソファから立ち上がった。
そして深く息をつき、ステージに背を向ける。
馨はその反応を見て不意に現実に引き戻された。
「あ、あの……先輩。どうでしたか」
彼女の背中に問いかける。
楽器をスタンドに立ててマイクのスイッチも切ったが、何となくステージからは降りられなかった。
「一花。……実はな、私はプロを目指してるんだ」
彼女は静かにそう言った。
「だから、サークル内での活動は抑えてる。なのにあの時はなぜか君に課題なんて出して……君の出来次第では組んでもよいなんて、軽率で偉そうなことを言ってしまった」
「……え」
彼女の言い回しに、嫌な予感を覚える。
先ほどとは違う意味で動悸が激しくなっていった。
不合格を言い渡されるのか?
祈る気持ちで言葉を待っていると、彼女は突然振り返り、アッシュカラーの髪を揺らして頭を下げた。
「一花、御免! 私からお願いする。一緒にバンドを組んでほしい!」
──数秒だけ思考が止まる。
それから事態をやっと理解して、馨はステージから降りた。
「……えっ、それは、合格ってことですか?」
「ああ! そうだ。ここまでよく頑張ったなっ」
「あ……ありがとうございます!」
思わず飛び上がりそうになるが、何とか気持ちを抑えて彼女に歩み寄り、頭を下げた。
「嬉しいです。これからどうぞよろしくお願いします、先輩」
「うむ!」
彼女は大きく頷いて、両腕をばっと広げた。
「さあ、いつでもいいぞ! 今まで抑えていた君の気持ち、真正面から受け止めてやろうっ!」
「えっと、それは大丈夫です」
「何も遠慮することはない! あ、これからはもち明太チーズたこ焼きも半分あげるぞ!」
なぜか得意げな顔をする彼女に最早マスコットのような愛嬌を感じる。しかし、馨は首を横に振った。
「……済みません、先輩。俺、今好きな人がいるので」
「む? 分かってるぞ。私のことだろう?」
「いえ……先輩のことは尊敬してます。でも違う人です」
迷いなくそう告げる。
すると淀名和は眉間に皺を寄せて黙り込み、やがてはっとした顔をして後退りした。
「じゃ、じゃあ、最初からたこ焼き目当てで……!?」
「え?」
「わ……わるい男だ! 私を誑かして、今後私が買うたこ焼きを全て奪おうとしてたのか!」
「違います。バンド組みたかっただけです」
「バババ、バンドは組んでやる! だがたこ焼きには手を出すなよっ! 絶対に!」
「出さないですって……」
突拍子もない解釈に思考がついていかない。
だが、恋心ではないと分かって落ち込まれるよりはずっと平和だと馨は思った。
「そうだ、先輩。百花と
「わ、分かった! 君の要求は素直に聞こうっ」
「ありがとうございます」
「もう帰っていいぞ! 私はほら、少し片付けてから鍵を管理室に返しに行くから!」
淀名和はまだ無意味に警戒している様子だった。
下手に刺激して話が白紙に戻っては困ると思い、馨はその指示に従うことにした。
「じゃあ……またご連絡します。今日は本当にありがとうございました」
「うむ! これからよろしくな! 気をつけて帰るんだぞっ」
依然挙動不審な様子で、淀名和は手を振った。
◇
サークル棟を出ると実感が湧いてきて、馨は内心小躍りしながら北門へと向かっていた。
外は夕日がほぼ沈み、濃紺の空が広がりつつある。
百花に連絡する文面を考えながら中庭までやってきたところで、馨はふと顔を上げた。
十数メートル前方。
葉の生い茂った木が落とす影の下に、誰かが立っているのが見えた。
暗くて姿はよく分からないが、確かにそこにいる。
思わず足を止めて見つめると──その人物は不意に、木の影から走り出てきた。
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