第七十四話

 翌日にあたる土曜日、夜8時を過ぎた頃。


 けいは食事の片付けを終え、練習に取りかかる前に考え事をしていた。


 想いを打ち明けた昨日の夜──家に帰ったあと、二人は揃って気がそぞろになりつつも早々はやばやと就寝した。

 当然と言えば、当然だ。

 互いの想いを受け入れたとはいえ、百花ももかからの結論はまだ出ていない状態なのだから。

 馨は先走ってはいけないと己に言い聞かせ、妙な気を起こさないよう懸命に努めて一夜を過ごした。


 だが、今朝になっても彼女はあの話を持ち出さなかった。

 照れくさそうにどぎまぎするだけで、ろくに目も合わせぬままアルバイトに行ってしまった。

 

 そして今もまだ帰ってきていない。


 勿論、馨は彼女のペースを尊重したいと思っていた。自分も彼女への感情を受け入れるまでに存外時間がかかったからだ。

 しかし、全くれったくないと言えば嘘になる。

 彼女の頭の中が気になるばかりで、貴重な休日の練習時間もふいにしかけていた。


 何か決断を妨げる迷いの種があるのかもしれない。

 ならば、こちらから声をかけた方が良いのだろうか。


 そんなことを考えていると──突然玄関のドアが開く音がした。

 心臓がどきりと飛び跳ねる。

 どうするべきか考えが定まらぬ内に、百花がリビングに入ってきた。


「た、ただいま、一花いちはなくん」


 彼女は馨と目が合うなり、恥ずかしそうに頬を染めて視線を下げる。


「……お帰り。今日、遅かったな」

「う、うん。ちょっと人手が足りてなくて……臨時で時間増やされてるの。私はお金稼ぎたいから、全然いいんだけどね」


 困り笑いでそう言って鞄をソファに置く間も、目を合わせない。

 彼女は再び廊下の方に向かうと、


「えっと、それじゃ、お風呂入ってくるね」


 と言ってそのままリビングを出て行ってしまった。 


 ぎこちないその振る舞いのせいで、馨はいっそう彼女の考えが知りたくて堪らなくなった。

 決して急がせるべきではない。だが一度そちらに意識が向くと、自分でも不思議なくらい切り替えが難しいと感じていた。


 ◇


 ──数十分後。

 彼女は入浴を終えてリビングに戻ってきた。

 馨はショートパンツから伸びる色白な足に気を取られたが、視線を外して心を鎮める。

 さりげない口調で問いかければ、彼女もプレッシャーを感じずに答えてくれるかもしれない。冷静にならなくては。


 しかし、ローテーブルの上でノートパソコンを開く彼女の前に行くと、それだけで彼女はびっくりした様子で目を丸くした。

 そして馨が何か言う前から、立ちどころに顔を紅潮させる。


「……百花」

「なっ、な、何っ?」


 馨は早くも自分の作戦は失敗していると悟った。

 だがここまで来て諦めるわけにもいかない。


「あのさ、昨日のことだけど……まだ、気持ちの整理はつかなさそう?」

「えっあぁ、あのそれは、えっとー」

「別に、急かしてるわけじゃない。ただもし何か迷ってることがあるなら、俺にも話してほしい、というか……」


 つられて自分まで頬が熱くなる。

 彼女は慌てた様子で脇に置いてあったノートを掴むと、それで顔を隠してしまった。


「ご、ごめんねっ? 一花くん。何か不満があるとかじゃないの……。ただ、君のこと考えようとすると、何だか思考が纏まらなくて」

「……そっか」

「月曜には、話せると思う。私、ちゃんと好きだから、待ってて……」


 ローテーブルと彼女の顔を隠しているノートのお陰で、馨は自分に歯止めをかけることができていた。

 真に二人きりの空間で「好き」などと言われて、本来ならじっとしていられるわけがない。


「わ、分かった」


 どうにか平静を保って頷いたのと同時に──

 

 床に置いてあったスマートフォンが振動し始めた。

 タイミングが良いのか悪いのか分からない。

 着信画面を覗き込むと、「淀名和よどなわ 夢舞ゆま」と名前が表示されていた。


「淀名和先輩だ……」


 咄嗟に応答せずにぼやくと、百花はノートの横から顔を覗かせた。


「え? は、早く出てあげなよ?」

「ああ、うん」


 また奇想天外な話をされるのではないか、と不安になりつつ馨は電話に出る。


「はい……もしもし」

『一花か? 私だ、淀名和だ!』

「お疲れ様です、先輩。どうかしました?」

『こんな時間に御免! 大変なことがあってなっ』

「大変なこと?」

『サークル棟一階にあるロッカーが、壊れて開かなくなってしまったんだ!』

「え? ああ……そうなんですか」


 少し慌てたような口調に気圧される。

 淀名和が言っているのは、サークル棟にある全部室の鍵がそれぞれ収納されたセキュリティー付きロッカーのことだった。

 何かしらのサークルの部員として登録されている学生であれば、ICチップの内蔵された学生証と暗証番号で鍵を取り出せる仕組みになっている。

 しかし、それが彼女とどう関係するのだろう。


「何か不都合でもあるんですか?」

『わ、私はさっきその場に居合わせたんだが──職員っぽい人に《 に業者が来て修理するから、サークル棟だ》と言われてしまったんだ』

「えっ、火曜って」


 馨はそれを聞いて思わず居住まいを正した。

 不安そうな顔をした百花とも目が合う。


『ああ、君の大事な試験の日だ。これは由々しき事態だよ』

「ですね……じゃあ、日にち変えないと。先輩はいつなら大丈夫ですか?」

『うむ。そこなんだが……』


 淀名和はいくらか沈んだ声で言った。


『今月はどうも、忙しくてな。大学にもあまり来られないんだ』

「そんな……ていうか先輩、単位大丈夫なんですか?」

『ああ。まだ2年生の前期だし、セーフラインを意識して色んな講義を満遍まんべんなく休んでるからな!』

「それは多分、あんまり大丈夫じゃないっす」

『まあ、そういうわけなんだが……一日だけ、時間が取れそうな日がないこともない』

「えっ。いつですか?」


『日曜日──つまり、明日だ』

「!」


 そう言われた瞬間、焦燥感が湧き上がってきた。

 ざっと見て約2日分の練習時間が失われることになってしまう。

 百花のお陰で滞りなく練習に専念できてはいたが、それでも想定外の事態に不安は募った。


『明日の夜7時、場所は変わらず部室で。どうだろうか』


 淀名和は静かに尋ねてくる。

 先延ばしにすることも不可能ではないのだろうが、馨は彼女に試されているような気がしていた。

 より不利な状況で彼女を納得させられれば、誘いを受けてくれやすくなるかもしれない。当然リスクでもあるが──やるしかないと思った。


「分かりました。それで大丈夫です」

『本当か? ふむ、そんなに早く私に会いたいと思っているとは! 君は思ったより素直だな!』

「……えーっと、でも先輩、ロッカー壊れてる状態でどうやって部室開けるんですか?」


 逸れ始めた話を無理やり戻す。

 すると淀名和は『ああ』と何事もなかったように言葉を続けた。


『臨時の対応として管理室でスペアを貸してくれるらしいぞ? 私が借りて開けるから、君はまっすぐ部室まで来てくれ』

「りょ、了解です。じゃあ明日はよろしくお願いします」

『うむ! こちらこそ、よろしく頼む』


 どうにか話を無事に終わらせることに成功する。

 手短に挨拶をして通話を切ると、百花がテーブル越しに身を乗り出してきた。


「どうしたの? 淀名和先輩、ロッカー壊したの?」

「いや、多分違うと思うけど、とにかく壊れたらしい。火曜は修理でサークル棟に入れなくなったから、試験は明日にするって」

「ええっ!」


 彼女はショックを受けたような顔をした。


「で、出来栄えは最高だと思うから心配してないけど……私もついて行きたいと思ってたのにっ。どうしよう、明日のバイト休めそうにないよ」

「大丈夫、気にすんな。そもそも先輩、二人きりでやるって言ってたし」

「あ……そ、そうなんだ。じゃあ、結果が分かったらすぐ連絡ちょうだいね?」

「うん、分かった」


 馨が頷くと、彼女はふと表情を緩ませてはにかんだ。

 控えめだったが、微かな不安を和らげるには十分の微笑みだった。

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