第七十三話

 けいの言葉に対し、百花ももかはただ黙って柔らかな唇を引き結んだ。

 だが昼休みの時と違って、話を聞かずに立ち去るそぶりはない。それだけでも馨は少し安堵した。


 一夜の過ちをきっかけに始まった感情を、馨は今でも信じられていなかった。つい半月前までは別の相手を好いていたのに、これほど心を乱されるとは思っていなかったのだ。


 纏まりきらないその思いを伝えるのはとても恐かったが、伝えなければきっと彼女を止められない。


「百花。昼にも言ったけど、もう寧々ねねに復讐なんてするのはやめよう」

「…………」

「あの日のことはまだ振り返ると辛いけど、この半月、お前がいたお陰で嫌なことばかりじゃなかった。だから……もう十分だろ。これ以上、お前が辛い思いする必要なんてない」


 馨がそう言うと、百花は深く嘆息して厳しい眼差しを向けた。


「……その話はお昼にしたでしょ。自分が辛くたって、君の苦しみをあの子に返すまでやめないよ」

「でも、俺はもう百花に傷ついてほしくない。泣いて苦しんでるところも見たくない」

「私は全部望んでやってるの。放っておいて……!」


 そのかたくなな言葉の裏にあるのは深い情と、大切な人間を傷つけられたことに対する怒りの念だ。

 しかし、それでも馨は引き下がる気はなかった。むしろ彼女を前にして、自分の中の想いが強くなっていくのを感じる。


 彼女を見つめ、心を決めて口を開いた。


「放っておけない。……百花のことが好きだから。大切に思ってるから」


 胸の奥から溢れるまま、一思いに言いきる。


「──……え?」


 彼女は、目を見開いてほうけた表情をした。

 しかしすぐその頬に赤みが差していく。


「なっ、何言ってるの? 一花くん……」


 絞り出された声は困惑に揺れていた。

 駅のぼやけた照明を受けて、茶色の双眸そうぼうが煌めいている。


「う、嘘でしょ? ふざけてるんだよね?」

「嘘じゃない。失恋したばっかのくせに、節操ないって思われるかもしれないけど……俺の本心だよ」


 馨の言葉に彼女は更に狼狽えた様子で、呆然と目を泳がせた。


「な……なんで? なんで私っ……?」

「俺のために、今まで色んなことしてくれただろ。そういう優しさに気づいてく内に、いつの間にか放っておけなくなって、大事な存在になってた」

「まっ……待って。なに、それっ? 全然、全然分かんない、信じられない……」


 いっそう顔を赤くして、彼女は自分の頬を手で覆う。心の底から動揺しているようだった。

 その反応を見るに、自分が惚れられる可能性があるとは今まで少しも考えていなかったようだった。時々仕掛けてきた煩悩を擽るような振る舞いも、誘惑するためではなく、馨の気を紛らわせるためのものだったのかもしれない。

 そう思い当たると、馨の胸は熱く締め付けられた。


「本当は、ちゃんと整理がついてから言いたかった。だけど、お前が復讐するのを少しでも早く止めたかったから──もうお前に辛い思いをさせたくなかったから、今の気持ちを伝えようと思ったんだ」

「……そ、そんなこと、急に言われても、私、どうしたらいいか分かんないっ……」

「驚かせてごめん。でも、俺は」

「ま、待って、言わないで……!」


 彼女は慌てたように言葉を遮り、目に涙を溢れさせた。


「ねえ、あ、あのさっ、気のせいじゃないかな? 君のそれは、恋愛感情なんかじゃないと思うっ」


 彼女の声は震え、潤んだ視線は次第に下へ下がっていく。


「き、君はただ、《あの夜私とシたこと》がすごくかったから、好きだって勘違いしちゃっただけなんだよっ……きっとそうだよっ」


 露骨な言葉に馨は一瞬どきりとしたが、最早それくらいで曖昧になる想いではないと自分で確信していた。

 半ば無意識に強く手を握り締める。


「俺だって……あの夜がきっかけだったのかもって悩んだし、正直、全く関係なかったとは言い切れない。だけど、今俺の中にあるのはそういう願望なんかじゃなくて、お前のことをただ大切にしたいって気持ちだけなんだよ」


「……そ、そんな、わけない……。やっぱり君、冗談言ってるんだよね? それとも私、お酒呑みすぎて幻見てるのかな?」


「冗談でも幻でもない。俺は全部本気で言ってる」


 自分でも驚くほど、馨ははっきりそう告げた。

 一つ一つを言葉にするたびに、自分の気持ちが確固たるものになっていくようだった。


 彼女の目から、溜まっていた涙がぼろぼろと零れる。


「っ……わ、私は、君のこと好きだけど、君に好かれようとして優しくしてたんじゃないのっ……そんなつもりじゃ、なかったの……」

「分かってる。俺のためだったんだろ」


『君が幸せになれるなら何だっていい。私の『好き』はそういうことだから』


 あの夜に聞いた彼女の囁きが頭の中に蘇る。

 

「百花。もしまだ変わらずそう想ってくれてるなら……これから先も俺と一緒にいてほしい。整理がついてないままここに来たけど……やっぱりお前のことが好きなんだって、今面と向かって話してて分かったから」

「い、一花くん……」

「だから、寧々ねねに復讐するのもやめるって約束して。俺はお前にも笑っててほしい」


 紅潮した頬を涙で濡らしながら、彼女は唇を噛み締めた。

 そんな姿も馨にはいじらしく映る。

 

「で、でもっ、復讐をやめるなんて……あの子だけ苦しまないで済むってこと? やだ……私、そんなの絶対許せないよ……!」

「それはもう心配いらない。だって、俺がこれからお前と一緒にいて、もっと好きになっていけば……寧々のことなんて簡単に忘れられるから」

「っ……う、うぅっ……」


 馨の言葉を黙って聞いていた彼女は、不意に力が抜けたように屈み込み、膝に乗せた腕に顔を押しつけた。

 そして、肩を震わせて泣き始めてしまう。


 募る想いを伝えきった馨は、彼女が嬉しくて泣いてくれたのだろうかと一瞬都合の良い方に考えた。しかし彼女の泣き声は、どこか少し悲しげに聞こえる気がした。


「百花……、なんでそんなに泣くんだよ」


 思わず歩み寄って目の前に膝をつく。

 しかし、彼女は何も言わずに泣き続けた。

 可哀相なくらいに震える華奢な肩に触れようとするが──それと同時に、彼女はびくりと顔を上げてわずかに身を引いた。


「だめ……いま君に触られたら、私、どうにかなっちゃいそうだからっ……」

「ご、ごめん」


 やけに切なく官能的な言い回しにどぎまぎしたが、彼女の泣き腫らした表情を見るとさすがに控えようという気持ちが勝る。


 彼女は少しの間小さくしゃくり上げていたが、やがて馨の目を見つめて言った。


「君が言ってくれたこと……すごく、嬉しいよ。

 私も──復讐なんてやめて、一緒にいたい。

 大好きな君からの、お願いだからっ……」

 

 彼女の口から「大好き」という言葉を聞いた瞬間、馨は筆舌しがたい悦びと昂りで気持ちがはやるのを感じた。

 直前に触るなと言われていなければ、迷わず抱き締めていたかもしれない。


「で、でもねっ……その前に……」


 なぜか恥ずかしそうに、彼女は視線を伏せる。


「ちょっとだけ……考えさせてほしいことがあるの。今は頭が混乱しててっ、なんにも考えられないから……時間が、欲しいの。だめかな……」

「考えさせてほしいこと?」

「うんっ……急だったから、私も、気持ちを整理したくて」


 いつまで待てばいいのか。馨は咄嗟にそう訊いてしまいそうになった。

 だが当然そんな性急で無遠慮な振る舞いはしたくない。顔が緩みそうになるのを堪えて、何とか頷いた。


「分かった。いいよ」

「……ありがとう、一花くん。……待っててね」


 百花は眉尻を下げ、涙で光る目を細めて小さく微笑んだ。

  

 少し彼女が息を整えたあと、やっと二人で帰路につく。

 その間も馨はどことなく浮き足立っていた。隣を歩く彼女の空いた手を何度も見やってしまうほどに。


「? どうしたの、一花くん。じっと見て」

「え、いや、薄着で寒くないかなって心配だっただけ」

「そっか……本当は、私に触りたいと思ってた?」

「! 別に。思ってない」

「もう一度言うけど……触っちゃだめだからね」

「さ、触らねえって」


 しかし、慌てなくてももうすぐその手に触れられるようになる。憎しみにまみれた泣き顔ではなく、幸せそうな笑顔が見られるようになる。

 少し泣き疲れた彼女の顔を見て、馨はそう思った。

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