第七十二話
彼に言われたことは不気味だったが、推理したところで答えが出せるわけでもなく、早々に頭の片隅に追いやっていた。
それより、今どうしても気にかかるのは百花のことだ。
鍵を差してドアを開ける。
当然彼女は帰ってきていない。
彼女が夜通し酒を呑む友人とは一体どんな人物なのだろう、と馨は興味を引かれつつ食事の用意を始めた。
取り出す保存容器には相変わらず
そしてそれらをレンジで温めていざ口にすれば、彼女の手料理を初めて味わったときと同じ感動を覚える。
彼女の細やかな優しさに、またしても物思いに耽った。
食事を終え、着替えて課題の練習に取りかかる──が、その間も何となく百花のことが頭から離れない。
それは彼女の痕跡があちこちに散らばるこの家にいるからでもあり、昼に彼女を泣かせてしまったからでもある。
相変わらず自分の抱くものが恋なのか友情の類なのかも分からないが、彼女を泣かせたくないという気持ちは変わらなかった。
馨は楽器を弾く手を止めながら、そんな風に思った。
◇
午後11時すぎを回った頃。
座ってうたた寝をしていた馨は不意に目を覚ました。
壁の時計を見てから部屋の中を見回すが、彼女は帰ってきていない。
やはり友人の家に泊まってくるのだろう。もの寂しく思ったが、致し方なしと気持ちを収める。
ギターをスタンドに立てかけ、寝る支度をしようと立ち上がったのと同時にスマートフォンが短く振動した。
馨は何の気なしに画面を覗き込み──MINEからの通知を見て、反射的に本体を掴み上げた。
メッセージの送り主は百花だった。
〈泊まる予定だった家の子が酔いつぶれちゃった。
朝もお世話するの大変だし、やっぱり終電で帰るね〉
その文面を理解するや否や、心拍数が上がっていった。話せる機会を唐突に得てしまって緊張感を覚えたのかもしれない。
そして、それと同時に馨にはもう一つ気にかかったことがあった。
──彼女はこの家まで一人で帰ってくるのだろうか。
同じ方面に住む友人がいるならまだ安心だが、もしそうでないなら地下鉄を降りたあと一人で夜道を歩くことになる。
駅からこの家まではせいぜい歩いて15分ほどだ。
しかし、こんな時間に女性が人気のない住宅地を一人歩きするのはあまり良い選択ではない。
姉が大学生だった時、飲み会や行事で帰宅が遅くなりがちな彼女を神経質に心配していた父の姿が思い出された。それを間近で見てきたからか、過剰な彼の感覚が移ってしまったのかもしれない。
馨はそれを少し不快に思いながら、百花に返信した。
〈帰りは一人?〉
〈そうだよ〜。他のみんなは逆方向だからね〉
その返事を見て咄嗟に「彼女を駅まで迎えに行かなくては」という考えが浮かぶ。
だがすぐに恥ずかしくなった。単なる親切心で思いついたのではなかったからだ。
〈もう夜遅いから、駅からタクシー乗れよ〉
代わりに要らぬお節介のような言葉が飛び出すが、
〈そんなブルジョワの乗り物乗れな〜いΣ(゚ω゚)
歩いて帰れる距離だから大丈夫だよ〉
彼女の返事はつれなかった。
「距離の問題じゃなくて……」
思わず独り呟く。
だが、心配なのだという一言が伝えられない。
──寧々への仕返しをやめてほしい。泣いている姿を見たくない。
それらをちゃんと伝えられなかったのと理由は同じだった。
彼女に対する感情が分からないまま、これ以上馴れ馴れしく無責任なことは言いたくなかったのだ。
だがこうしている間にも彼女は地下鉄に乗り、最寄り駅に向かってきている。
街中から乗ったとすれば乗車時間は15分程度だ。
思考はさらに複雑に
馨は気が変わる前に急いで着替えをし、合鍵と携帯だけ持つと家を飛び出した。
◇
宵闇の中でぼんやりと光る、地下鉄「
15分もかからずに到着した馨は、少し息を切らしながら地下に繋がるエレベーターと階段に目をやった。
そこに人の姿はない。だが、普段百花は駅からの出入りに必ずこの出口を使っている。家までもほとんど直線の道を通るため、ここで待つかぎりすれ違う可能性はないはずだった。
元は白かったであろう薄汚れた壁面を、黄ばんだ蛍光灯が弱い光で照らしている。
その妙に
数分ほど経過した後──やがて、階段を上ってくる足音が一つ聞こえてきた。
途端に心臓が早鐘を打ち始める。
よく考えれば、彼女には一切迎えに行くと伝えていなかった。驚くだろう彼女に何と言って説明すればよいのか。
そんなことを悩んでいるうちに、
「えっ!
聴き馴染んだ声が飛んできて、馨は下げていた視線を上げた。
出口の明かりを背にして百花が立っていた。
驚いた様子で目をぱちくりさせている。昼に別れたきりだったが、今の彼女の顔に辛そうな表情は浮かんでいなかった。
「こんなところで何してるの?」
彼女は近寄ってきて馨を見上げ、首を傾げる。
馨はそのまっすぐな眼差しに耐えられず視線を逸らした。
胸の鼓動が速まったまま落ち着かない。
「い、いやその……コンビニに行って、そのついでに」
意に反して、思わず嘘までついてしまう。
すると彼女はぽかんと不思議そうな顔をした。
「コンビニって……ここまで来なくても、家のすぐ近くにあるじゃんか? ついでって距離じゃないよ」
冷静な指摘をされ、気恥ずかしくて堪らなくなる。
こんなにも心が乱されてしまうということは、やはり自分は彼女に恋をしているのだろうか?
そう思わずにはいられないが、今は一人で考えている場合ではない。
彼女と大事な話をしようと思ってここに来たのだから。
馨は何とかそう思い直し、深く息をしてからやっと口を開いた。
「ほ、本当は、その……迎えに来た。遅い時間なのに、お前が歩いて帰るなんて言ったから」
「! あぁ、そうだったんだね。ごめん、ありがと」
彼女は照れくさいのか気まずいのか、視線を下げる。いつものように
馨はその控えめな睫毛を見つめて言葉を続けた。
「それに……お前ともう一度ちゃんと話したかったから」
「え? 話って、何の?」
「今日の、昼のこと」
「あ……あんなの、もう忘れていいよ。ちょっと大袈裟に取り乱しちゃっただけだから。ほら、帰ろう? 私、明日午前中からバイトだし」
目も合わせずに彼女は早口で喋る。
きっと家に帰っても話はしないつもりなのだろう。
馨はそう悟り、首を横に振って言った。
「俺は、有耶無耶なままにしたくない。まだ自分の中で答えが出てない部分もあるけど……それも含めて、ちゃんと百花に伝えたい」
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