第七十一話
その日全ての講義が終わったあと
開いていたのはMINEのトークルームである。
〈お疲れ様❀ このあと学科の友達と飲みに行くんだけど
時間次第では朝帰りになるかも。ごめん。
ご飯は家にあるもの自由に食べていいからね〉
そんなメッセージが
明日が休日だから、遅い時間まで飲むつもりなのだろうか。
馨は彼女と改めて真剣に話をする気でいたが、これでは延期にせざるを得ない。
帰ってきてほしい気持ちはあれど、急を要するかと問われれば答えは消極的だ。それに、そもそも馨には彼女のプライベートを制限する権利がない。
今日は一日よく考えることにして、明日彼女が帰宅してから話そう。
何とか前向きにそう決めて学生会館の前を通りかかると、
「よォ、
気怠げで飄々とした声に呼び止められた。
入口の手前に赤銅色の髪をした長身の青年が立っている。
「あ……、
同じ学科の3年生であるはずの彼とは、
突然の遭遇に身構えつつ挨拶をすると、彼は目の前までやってくる。
身長差は10cm以上あるだろう。高い身長を見せつけられ、馨は少し惨めに感じた。
「お前もう帰るの? 部室は行かねェのかよ」
「はい。今日はまっすぐ帰ろうかなと」
「ふうん……じゃあ、その前に一服付き合え」
彼は会館横にある喫煙所──と言ってもスタンド灰皿がただ野晒しで置かれているだけだ──を親指で示す。
しかし、馨は喫煙者でない。それくらいは部員間で互いに何となく把握しているはずだが、
「済みません、俺煙草は吸わないので」
「んなこと分かってるよ。いいから来い」
「え……」
面食らう馨をよそに彼はさっさと喫煙所の方へ行ってしまう。
馨は話が見えず、緊張しながら彼の後ろをついていった。
日が徐々に暮れてきた時間帯、いつもと違いスタンド灰皿の周りには誰もいない。
「課題の練習、捗ってるか?」
彼は煙草に火をつけながら尋ねてくる。
「はい、まあ順調です」
「本当に?」
「? だと思いますけど」
どこか意味深長な態度に、馨は違和感を覚える。
「困ってることも? 何もねェの?」
「……別にないです」
「あァそう。じゃあ聞くけど──
今日の昼、外で
「……!」
予想外の発言に、馨は心臓が跳ね上がるのを感じた。
次いで不快なざわつきが身体全体に走る。
「な、……何の話ですか。言ってることがよく分からないです」
咄嗟に白を切ったつもりだったが、
「俺さァ、あのときサークル棟2階の廊下の窓際で一服してたんだよ。お前ら二人が話してた場所の、ほぼ真上で」
「……」
「千恢ちゃん、泣いてたよな。話はよく聞こえなかったけど、どうせ『痴情のもつれ』か何かなんだろ?」
「……違います」
「嘘つけよ。てっきりあの
酷い言い草だった。
馨は心外に思って思わず眉根を寄せた。
「何ですかそれ……そんなことしないですよ」
「お前にその気がなくても、だよ。どいつもこいつもお前の話ばかりで、煩くて仕方ねェ」
「……俺の話? どういうことですか」
「特に2年の女連中と
煙草の煙を吐き出してから、彼は馨をじっと見据えた。
「淀名和は、サークル内でのバンドは俺ら3年としかやってない。それ以外は全部断ってんだ。外部でやってるバンドに集中するために」
「……そうなんですか」
「プロ目指してんだよ、あいつ。知ってた?」
「えっ? いや……知りませんでした」
予想するはずもない情報に、馨は面食らいつつ首を横に振る。
「だからお前に誘われても、あいつはその場で断ると思ってた。なのにわざわざお前だけには課題なんて出してよ……俺らと会うたび『一花は1週間で曲を仕上げてくると思いますか?』『部室で一花を見かけましたか? 順調そうですか』って聞いてくる。たこ焼き屋と外部のバンドにしか興味ねェ奴だったのに」
「……」
「お前が来てから、ずっと何か妙なんだよ」
そして品定めするような目で馨を見下ろした。
「お前の何がそうさせるんだろうな。その
「……わ、分かりません。俺は何もしてません」
そう言いながら馨は先日の
『《君の
淀名和が実際どう思っているのかは分からないが、やはり百花の言っていたことは単なる空想話ではないのだろうか。
馨は得も言われぬ寒気を覚えた。
彼女らだけではない──考えてみればそもそも、寧々だってその可能性があるのだ。そうでないなら、あれほどまでに自分に拘る理由が想像できない。
「おい、一花。聞いてんのか」
「あっ……済みません。ちょっと考え事してました」
「ったく。くれぐれも面倒事起こすんじゃねェよって言ってんだよ。俺だけじゃなくて、
「え……部長もですか」
「そうだよ。色恋沙汰の一つでもやらかしてみろ。速攻で退部させられるぞ」
「は、はい、分かりました…………ん?」
馨は彼の言葉に嫌な引っかかりを覚えた。
今まで他人に好意を持たれていた原因が、その《自分が纏っている見えない何か》であると仮定して──それは同性にも効果を発揮するのだろうか。
夕方と言えど、風もないのに寒気が増す。
「あの……先輩」
「何?」
「先輩は、俺のことどう思ってますか?」
「……は?」
「近くにいると変にどきどきしたりとか、しますか」
馨が意を決して尋ねると
「いきなり何言ってんだ? お前。イカれてんのか」
「……で、ですよね。済みません」
さすがに読みが外れたのかもしれない。馨は恥ずかしくなってすぐに頭を下げた。
一方
そして、
「まあ──何も思わないわけじゃねェけど」
と呟いた気がした。
もちろん馨はすぐに聞き返したが、彼は肩を竦めて「別に、何でも」と言うだけだった。
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