第六十九話

 百花ももかの問いに、寧々ねねは丸い目を瞬かせて困ったように微笑んだ。


「えっ? う、ううん、私はお兄ちゃんいるよ……?」

「うそだぁ。私がお兄ちゃんとお姉ちゃんいるんだって話したとき、『私は一人っ子だから羨ましいな』って言ってたじゃんか?」


 間髪入れず百花が切り返したが、寧々はぶんぶんと首を横に振った。


「い、言ってないよっ。そのときって確か千恢ちひろちゃんお酒飲んでたよね? それで、聞き間違えたんじゃないかなっ?」

「そんなはずないよ〜。私あれくらいのお酒じゃ酔わないもん」

「でも、私が自分で一人っ子って言い間違えるわけないしなぁっ。誰か、違う子と勘違いしてるんだと思う!」

「最近きょうだいの話したの、寧々ちゃんだけだもん。……で、結局どっちが本当なの〜?」


 あくまで穏やかな口調で百花はそう訊ねる。

 しかし、寧々が何か答える前に──部室の扉が再び音を立てた。


 現れたのは悠大ゆうだいだった。

 彼は周りに挨拶をしつつソファの方へ迷わずやってくる。


「よっ! お疲れぃ! ……ん、どした? 皆変な顔して」


 不思議そうに四人の顔を順々に見る彼に、


「あのねっ、私なぜか千恢ちひろちゃんに一人っ子だと思われてて! 全然言った記憶ないのに、不思議だよねっ」


 と寧々が真っ先に言った。

 困ったような、それでいて人懐こい笑顔で。

 必死に彼に取り入ろうとしているような振る舞いに、馨はただ閉口するしかなかった。

 百花も同じなのか、黙って寧々を見つめている。

 

 悠大はきょとんとした顔で首を傾げ、


「なんそれ? 寧々ちゃん、兄さんいるじゃん。もう社会人で、ちょっと過保護……なんだっけ? 俺ら三人にとっては周知の事実だよ。な!」


 と同意を求めるように鉈落と馨を交互に見た。


 当然すぐに頷いた鉈落の横で、馨は一瞬迷った。

 彼女の恐ろしい嘘をこのままにしておくのが不本意だったのだ。

 しかし、だからと言って百花に話を合わせるのも不自然である。確かに『兄』の話は寧々から散々聞かされていたのだから。


 馨はこのサークルに属している自分が好きだった。

 上級生は揃って横暴な上に風変わりで、部室は煙草の匂いが染みつき大体いつも散らかっている。飲み会に至っては時に苦痛すら伴う。

 それでもここでは、ずっと焦がれていた音楽に触れることを許される。親の元で暮らしていた時のような、抑圧された日々とは違うのだ。


 もしも今この場で真実を口にしたら、その全てが崩れてしまう。

 百花が自分のために示してくれた道も──。


 馨は考えを巡らせた末、悠大の問いかけに頷いた。


「うん。確かに……お兄さんの話はよく聞くけど」


 すると、それを聞いた途端に寧々は安堵したような顔をした。

 そして百花の方を見て微笑みかける。

 

「ほらねっ、私ほんとにお兄ちゃんいるんだよ? 信じてくれた? やっぱり、私と話してたときは酔っちゃってたんだねっ」


 口を挟ませたくないのか、少し早口でまくし立てる。

 そんな寧々を見据え、百花は穏やかに微笑んで首を傾げた。


「え〜そうだったのかな? ……不思議だな〜ぁ」

「ふふっ! 千恢ちゃんって普段落ち着いてて大人っぽい感じがするから、おとぼけさんになるの珍しいねっ。そういうギャップも可愛いっ」

「……私はそんなつもり全然ないんだけどなー」

「だからこそだよっ。あっ! 可愛いところ見せてくれたから、お菓子あげるね! 私のバイト先で売ってるクッキーなんだけど、一枚しか持ってきてないから特別だよっ」


 寧々はそう言ってトートバッグを漁り、個包装された可愛らしい花型のクッキーを一つ百花に渡した。

 彼女らのそんなやりとりに、悠大や鉈落が笑う。


 寧々はまたしても嘘をついた。

 恋人の存在を疑われたくない一心なのだろう。

 その化けの皮が剥がれかけているとも知らずに。

 馨はなぜ寧々がここまでして自分に拘るのか、不思議で仕方がなかった。

 百花の言っていた『魔法』などという頓狂な話は置いておくとしても、少しも理由が想像できなかった。


「あ」


 ふと、百花が声を上げた。

 彼女の目は自身のスマートフォンに向けられている。


「なんか友達に呼び出されちゃった。急ぎみたいだから、ちょっとそっち行ってくるかな〜」


 何気ない口調だが、その瞳は何らかの感情で揺らいでいた。

 その上──彼女が見ている液晶にはホーム画面しか映し出されていないのを、馨は垣間見てしまった。

 メッセージが表示されている様子はまるでない。

 

「えっ! 千恢ちゃん行っちゃうの? 戻ってくる?」


 残念そうに声を上げる寧々に、百花は深い微笑みを向ける。


「ごめんね、今日はお昼もそのままそっちで食べるかなぁ。クッキーありがとう、寧々ちゃん。皆、それじゃね〜」


 そう言って、一度も振り向かないまま部室を出て行ってしまった。


「行っちゃった……私、もっと千恢ちゃんと話したかったなぁっ」


 眉を八の字に下げて、寧々はそう言う。


 馨は百花が今どんな感情を抱いているのかひどく気にかかっていた。

 単に寧々の狡猾さに呆れて離脱しただけかもしれない。

 だが、もし自分が寧々の味方をしてしまったせいで傷いているのだとしたら──。

 

 今彼女を追いかければ、悠大達にその様子を不審に思われる恐れもある。

 しかし、馨は彼女を放っておけないと思った。

 彼女の想いや行動は時に歪んでいて受け止めきれないが、少なからず恩義があった。

 そして何より、今は恋なのかどうか分からない情まで抱いてしまっている。

 その情は曖昧なくせに、決して浅いものではなかった。


「……俺、ちょっと下で飲み物買ってくる」


 苦しまぎれの嘘を言って馨は立ち上がった。

 悠大がぽかんとして、床に置かれた緑茶のペットボトルを指差す。


「それまだあるやん?」

「いや、炭酸とか刺激のあるやつ飲みたいから」


 適当に理由をつけ、馨は靴を履くなり部室を出た。

 彼女が出て行ってからそう時間は経っていない。急げば階段の途中か、遅くても一階で追いつけるだろう。


 日当たりが悪く涼しい廊下を足早に進み、階段を降りていく。追いついたときに、彼女に何と声をかけるべきか考えながら。

 しかし、馨は彼女に出くわさないまま一階まで来てしまった。

 両側に伸びた廊下の右にはエントランス、左には裏口がある。

 エントランスの方に彼女の姿はない。

 少し焦りを覚えながら裏口の方を見ると──ガラスのはまった古い扉が、ちょうど閉まった反動で揺れていた。

 

 心くまま扉を押し開けて外に出る。


 数段のステップを下りた先に、百花の後ろ姿があった。


「百花!」


 サークル棟から離れていく彼女の名を呼ぶと、彼女は歩みを止めて静かに振り返った。

 その眼差しは険しく、ひどく思い詰めているようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る