第六十八話

 翌朝、けいは大学へ行く準備を終えてリビングのラグの上に座っていた。

 同じく準備をしている百花ももかに幾度となく視線を向けながら。

 彼女は鼻歌まで歌い出しそうな様子で、ローテーブルに置いた鏡の前で髪を整えていた。

 本当にこれから他人に「罰を与える」つもりでいるようにはとても見えない。


「ん? どうかした? 一花いちはなくん」


 視線に気づいたらしく百花は鏡から顔を上げた。

 馨は少し迷ったが、自分の中の疑問を彼女に投げかけることにした。


「昨日お前が言ってたことだけど……罰って、何するつもりなんだよ」

「ん? 別に、『ちょっと』お仕置きするだけだけど?」

「答えになってねえわ。何するつもりなんだって聞いてんの」

「まだちゃんと決めてないよ。でも『ちょっと』は『ちょっと』だから」


 彼女はそう言って鏡に視線を戻してしまう。


 馨の中で漠然とした不安が大きくなり始めていた。

 いくら百花が『ちょっと』だと言ったところで、受け手の寧々ねねが酷い虐めだと見なせばたちまちトラブルになってしまいかねない。

 サークル内での揉め事を嫌う部長達の目に留まったら、いづらくなるのは百花の方ではないだろうか。


 馨はそんな結果にはなってほしくないと思った。少しやり方がいびつであっても、これまで彼女が自分を励ましてくれたのは事実なのだから。


「そんなこと、しなくていい」


 気づけば馨はそう言っていた。

 

 すると百花は再び鏡から顔を上げ、じっと目を細めて馨を見据えた。

 何も言わず、黙ったまま。


「別に、寧々を庇ってるわけじゃない。だけどもし寧々に虐めだと思われたら、お前もサークルにいられなくなるかもしれないだろ。俺は……そんなこと望んでない。今だって、お前と先輩とバンドやるために、ここにいるのに」


 百花は鏡をぱたんとテーブルに伏せ、かげった表情で溜め息をついた。


「一花くんは、本当にお人好しだよね。今も君を傷つけ続けてるのは誰?」

「……」

「私は納得できない。あの子だけ苦しまずに済んでるのが」

「だけど……お前も『相手に危害を加えない仕返し』だって言ってただろ」

「それはあくまでだよ? 私自身がどんな復讐をするかは、また別の話」

「え……」

「まあでも、心配しないで。今はちょっと牽制するだけだから」


 百花はそこで言葉を区切って立ち上がり、馨を見下ろした。


「あの子が最初に傷つくのは、君からの愛を失ったって思い知るまさにその瞬間だよ。……それはまだ少し先のこと」


 彼女の顔には怒りもあざけりも浮かんでいない。

 それどころか物悲しげな目をしていた。

 その胸の内にあるものがはっきりとは見えず、馨はただ見つめ返すことしかできなかった。


 ◇


 どんなに憂鬱に思っていても、昼休みの時間は変わらずやってくる。

 馨は午前の講義からずっと気がそぞろなまま部室に向かっていた。

 中央棟を出ると、燦々とした日差しが降り注ぐ。

 しかし気分だけは晴れない。


「馨、いつにも増してテンション低いよね」


 隣を歩いていた鉈落なたおちが笑いながら言った。彼は直前まで同じ講義を受けており、共に部室へ向かっていた。


「え、そう?」

「そうだよ。スピーキングのクラスでも全然発言してなかったし」

「普段も別に、そこまでしてないけど」

「まあそうか。何か悩み事があるわけじゃないの?」

「うん、特にない。大丈夫」


 一応ごまかしたものの、指摘されても無理はなかった。

 朝の講義は脳が覚醒しきっていないため元々苦手なのだが、今日はこの昼休みのことばかり考えていたせいで余計に身が入らなかったのだ。


 サークル棟に入り、エントランス脇から階段を4階まで上がる。そして心の準備もできないまま、部室の分厚い扉を開けた。

 

 室内には、いつもどおり先輩や同級生が十人ほどいた。テレビゲームをしている者が数人いるため少し騒々しい。

 それぞれと軽く挨拶を交わしながらソファの方を見ると──そこには既に百花がいた。


 しかし、寧々はどうやらまだ来ていない様子だ。

 急用でも入ったのだろうかと密かに期待する。

 

「一花くん、鉈落くん、お疲れ様。ここ空いてるよ〜」


 百花はいつもの笑みを浮かべて手を振っている。

 馨は近くに座るのを躊躇ったが、当然事情を知らない鉈落はそちらに行ってしまった。

 この状態であえて離れるのは行動として不自然だろう。そう思った馨は、仕方なくそれに続いた。

 

「課題曲の練習は順調? 一花くん」


 傍に座ると百花はそう尋ねてきた。

 だが、順調なのかどうかは彼女が一番よく知っている。

 それをわざわざ聞く行為は一見白々しい振る舞いに思えるが、周りに関係性を悟られないようにするためなのかもしれない。


「うん、まあ」

「それなら良かったぁ。君ならきっと大丈夫だよ、頑張ってね」

「……おう」


 彼女に合わせて自然に会話するべきなのに、今の馨には難しかった。

 寧々に一体何をするつもりなのか?

 そればかりがずっと頭の中を駆け巡っている。


「合格したら先輩とバンドできるんだもんね。楽しみだな〜」

「ああ、うん」

「そうだ! 合格したらさぁ」


 百花が何か言いかけたちょうどその時──部室の扉が開いた。

 ガチャン、というレバーの音がいつも以上に重く響く。


 その向こうにいたのは寧々だった。

 彼女は靴を脱ぐと、周りの挨拶に愛想よく応えながらまっすぐ近づいてきた。


「皆、お疲れ様っ」


 花のような笑顔でそう言って、寧々は馨と向かい合う位置に座る。

 そのとき馨の心臓は既に早鐘を打ち始めていた。

 自分の右側でソファに腰かけている百花の顔を見ることができない。


「あっ。そうだ、馨くんっ! 昨日は夜遅くに付き合ってもらってごめんね!」

「ああ、いや……全然いいよ」

「ん? 昨日の夜、何かあったの?」


 そう尋ねてきたのは鉈落だった。彼の問いに、寧々は嬉しそうに頷く。


「うんっ。昨日ね、練習してた歌を馨くんに聴いてもらったんだ! まだ完璧に仕上がってないんだけど、色々教えてほしくてっ」

「おお、そうだったんだ。安心院あじむさん本当に熱心だね」

「えへへっありがとう……! でも、話してる途中でお兄ちゃんが帰ってきちゃって……最後はバタバタしちゃってごめんね、馨くんっ」

「ううん。俺は全然気にしてな──」


「あれ?」


 突如、百花の声が馨の言葉を遮った。


 馨は驚いて百花に目を向けたが、一方彼女の視線は寧々にじっと注がれている。


 その眼差しに覚えた胸騒ぎは、もはや恐怖に近かった。


 百花はさも不思議そうに小首を傾げ──

 寧々に向かって言った。


「寧々ちゃんってお兄さんいたっけ? 前に私と兄弟の話になったとき、一人っ子だって言ってなかった?」

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