第六十七話

 当然けいはその手をすぐに押さえて引き剥がそうとした。

 それでも百花ももかは巧みにすり抜け、下へと向かっていく。

 無闇に音や声を出せないことに焦りを募らせていると、

 

『もっとお話してたいけど、疲れてる馨くんに無理はさせたくないから……そろそろ切るねっ』


 ふと寧々ねねが残念そうな声で言った。

 馨はそれを聞き、一瞬安堵して気を緩めてしまった。

 通話さえ切れればこの生き地獄から解放されると思ったからだ。


 だが──その一瞬を背後の彼女が見逃すことはなかった。

 彼女の細い指は、するりと滑り込むようにして下着の中に侵入してきた。


「! 待っ……だ、駄目だって!」


 慌てて振りほどくのと同時に、制止の言葉が口を衝いて出た。


 しまった、と思い反射的に携帯の方を見る。

 百花の手は大人しく引っ込んだが、寧々にばれてしまっては意味がない。

 動揺で何も言えずにいると、数拍の沈黙のあとで


『馨くん……?』


 寧々が静かに声を発した。

 緊張したような声音だった。


「いや、その、今のは」

って……も、もしかして、もっと私と話したいと思ってくれてるってことっ?』

「…………え?」


 馨は間の抜けた声を出した。全く予想していなかった反応だったからだ。


 寧々が誤解したことで百花の存在には気づかれずに済んだが、これは良い流れとは言えない。

 むしろ更に厄介な状況になってしまった。


 馨は振り返って百花を睨んだが、彼女は両手を上げて肩を竦めるだけだった。


『私もねっ、最近ずっと馨くんと話せてないなって思ってたの。馨くんは忙しかっただろうし、仕方ないんだけど……寂しかったんだ。何てことない話でも、普段すごく楽しいからっ』

「そう、なんだ」

『うん! 話したいことたくさんあるのっ。アーティストの新曲の話とか、バイトであったこととか、色々!』


 寧々は照れくさそうにまくし立てる。

 それは、いつか相手を捨て去る気でいる人間の振る舞いとは到底思えない。

 馨はまじないをかけられているような錯覚に陥った。

 再びそっと背中に触れた百花の手は、それを察したのだろう。


『一緒にいる時は勿論だけどね、そうじゃなくても私、馨くんのことばっかり──』


 寧々がそこまで言いかけたとき。

 ガチャ、とどこからともなく音がした。


 こちら側ではない。スピーカーの向こうからだ。

 そしてそれに続き、


『寧々?』


 彼女を呼ぶ声がした。それは明らかに、若い男性の声。

 馨は心臓が跳ね上がるのを感じた。


『えっ……!? りょ──お、お帰りなさい! あれ、残業は?』

『予定より早く片付いたからさ。……で、何してるの。電話?』

『そう友達と! でももう終わるところだったの! 終わったらご飯温めるから、リビングで待っててっ』


 寧々が少し慌てた様子でそう言うと、その男性は短く返事をして部屋を出ていったようだった。

 彼は恐らく恋人の「亮輔」だろう。

 寧々は以前家族と暮らしていると言っていたが、今いる場所は恋人の家なのかもしれない。


『も、もしもし馨くん?』


 打って変わって押し殺したような声で、彼女は呼びかけてきた。

 

『ごめんねっ、お兄ちゃんが仕事から帰ってきちゃったっ。今日はお母さんいないから、私が色々やらなきゃいけなくて……もうそろそろ、行かなきゃっ」

「そうなんだ。大変だね」

『ほんとにごめんねっ、私ももっとお話したかったんだけど』


 馨は先ほどまで甘い言葉に惑わされかけていたが、あの青年の声で冷静さを取り戻していた。

 彼女との穏やかだった日々もそれ以上思い出さずに済んでいた。

 その心の中は、どことなく空虚だったが。


「いや、全然気にしないで」

『ありがとう……! あっ。明日のお昼、馨くんも部室行く?』

「行くよ。いつもどおり」

『よかったっ。それじゃあまた明日、部室でねっ』

「うん、また明日」


 やがて電話が切れ、無機質な「通話終了」の文字が表示される。


 部屋の中に一瞬の静寂が訪れたあと、百花が背後から前に回り込んできた。彼女は、少し暗い顔をして言った。


「あの子、彼氏の家で電話してたんだね」

「…………」


 馨は何も言わず百花をただ見返した。

 悪戯をしでかした彼女を憎く思っていたが、既にきつく叱責する気力は失せていた。


「すごいよね。彼氏には友達だって嘘ついて、君にはお兄ちゃんだって嘘つけばいいやって思ったんでしょ。ほんと、自分さえ良ければ何でもいいんだね」

「……。前、《家族》と住んでるって言ってたんだけどな」

「そうなの? じゃあ、それも嘘かもしれないね。……腹立たしいなぁ」


 百花は眉根を寄せて低く言った。嘘をつかれた当人かそれ以上に、怒りを募らせているように見える。


「今更だろ……。俺にはもう、関係ない」

「そう言って、本当は傷ついてるでしょう? 苦しいなら苦しいって、私には素直に吐き出していいんだよ」

「別に、大丈夫だって」

「勝手に電話に出たの私だし、お詫びの意味も込めて、君の望むことなら何でもしてあげるよ」

「いや、寧々が何の話をするか気になったんだろ。気持ちは分かるから、それは別に詫びなくていい。けど……」


 馨はそこまで言ってから、彼女をじっと睨んだ。


「お前、さっきのあれは何なんだよ。ここに泊まる間、俺には指一本触らねえって言ってただろ」

「あれは……緊急事態だったからだよ。何とかしないと、あの悪魔に惑わされちゃうところだったでしょ?」

「緊急事態って言えば許されるわけじゃねえからな」


 百花は不服そうに少しむくれた。


「君を助ける意味合いもあったけど……あれは『仕返し』でもあったの。あの子が欲しがってる君に触れることで、あの子を嘲笑あざわらいたかったんだよ。さっきはそれくらい、憎たらしかったから」


 百花は未だに「仕返し」をするつもりでいるのだ。

 自分達を傷つけた寧々に。

 冗談混じりの口調だったが、その裏にある感情が根深いことを馨は痛いほどよく分かっている。


「だ、だとしても、他にやりようあんだろ」

「あれ以上本気で触る気はなかったけどね……まあでも、仕返しはあくまで私の事情なのに、巻き込んでごめんよ」

「……別に、もういいけど。バレたらどうするつもりだったんだよ」


 そう訊ねると、百花は少し笑って肩を竦めた。


「そんなの、何とでも誤魔化せるよ。私も寧々ちゃんと同じで、悪知恵ばっかり働くから。優しくて純粋な君とは違ってね」

「何だよそれ……」

「そういえばあの子さっき、最後に『また明日、部室で』って言ったよね?」

「え? ああ……うん」


 馨の返事に、百花は愉しそうに微笑んだ。


「じゃあ私も明日のお昼、部室に行こうかな? また君のことを苦しめた寧々ちゃんには──ちょっと《罰》を受けてもらわないと」

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