第六十六話


「も、もしもし」


 勝手に通話を押した百花ももかを咎める暇もなく、けいは応答するしかなかった。


『あ! 寧々ねねですっ。馨くん、今大丈夫ですか?』

「うん。大丈夫だよ」

『遅くにごめんねっ。その、どうしても馨くんと話したいことがあったんだけど……バイトがあってこんな時間になっちゃった』


 スピーカーモードにした携帯から寧々の可憐な声が響いた。

 百花が本体をローテーブルの上にそっと置く。


 寧々とは、誕生日に初めて電話を貰って以降も何度か通話をしている。バンド関連での用事だった時もあれば、他愛ない話だけの時もあった。

 そんな記憶に胸が苦しくなる。

 なぜこんなことをさせるのかと百花に目で訴えると、彼女はノートパソコンに文字を打って画面を馨の方へ向けた。


『寧々ちゃんが何を話すつもりか知りたいの』


 単なる戯れではないようだ。しかし馨にとって荷が重いのは変わらない。


『馨くん、今おうちにいる?』

「え、ああ。うん」


 寧々に尋ねられ、馨は慌てて応えた。

 スピーカーからほっと息をつくのが聞こえる。

 

『よかった! えっとね、昨日馨くん忙しいって言ってたけど……私どうしても、練習した歌を聴いてほしかったの!」

「歌……あ、夏休みライブ用の?」

『うん! 一回でいいから、少しだけ時間貰ってもいいかなっ?』

「全然、構わないけど」


 つい傍にいる百花を横目で見ながらそう答えたが、彼女は静かにしているだけだった。

 パソコンのテキスト画面に何か指示を打ち込むでもない。

 

『やった、ありがとう! あ、アカペラは恥ずかしいから、キーボードも弾こうかなっ』 


 寧々がそう言うのと同時にガタガタと物音が聞こえた。緊張した面持ちで慌てて支度をする姿が目に浮かび、何とも言えぬ気持ちになる。

 純粋に好意を抱いていたときは、そんな振る舞いが可愛くて仕方がなかったのを思い出す。


『じゃあ……始めますっ』


 一言そう言ったあとに、微かなブレス音。


 続いて聞こえてきた彼女の声に、馨は不覚にも驚いた。

 よどみないソプラノは伸びやかで澄んでいて、耳触りが良い。

 緊張や拙さも感じられたが、それが清らかな声に愛嬌のようなものを与えていた。


『貴方に出逢えたこと それが私の幸せ』


 彼女のさえずる詞が頭の中で反響する。

 馨は密かに思った。

 もしも事情が違って彼女と穏やかに関係を進められていたら、きっとこの曲は一生忘れられないものになっただろうと。

 そう悲しくなるほど、彼女の歌はいじらしくて惹かれる魅力があった。


『──ど、どうかな?』


 歌が終わるなり、寧々は緊張ぎみに尋ねてきた。


「ああ……うん、その」


 しかし馨は言い淀んだ。ただ意見を述べるだけだと分かっていても、暗い気持ちのせいで言葉が浮かんでこない。

 そのとき──すぐ傍の気配が不意に動いた。

 顔を上げると、百花が目の前に迫ってきていた。


「……!?」


 驚いたが、声や物音を出すのは何とか踏み留まる。

 百花は馨が抵抗しないと判断したのか、寄り添うようにして馨の耳元に口を寄せた。


「褒めてあげなよ……? 上手だね、って」


 耳を掠る囁き声と吐息に身体がぞくりとする。

 慌てて肩を押し返すも、百花は変わらず静かな表情で携帯を指差すだけだった。

 馨は気を取り直して携帯の向こうの寧々に向き直る。


「う……うん、良いね。練習の成果、出てると思う」


 我ながらあまりにも言葉がぎこちない。

 しかし寧々はそれに気づかない様子で嬉しそうな声を上げた。


『わぁ、よかったぁっ! そう言ってもらえると嬉しいっ』

「その調子なら、夏休み前に余裕で完成しそうな気がする」

『ほんと!? でも私初めてだから、えっと、馨くんに色々教えてもらいたいな! まだまだダメなところはあると思うしっ』

「いや……俺が教えられることなんて全然ないよ」

『そんなことない! 私ほんとに馨くんの歌が好きだし、尊敬してるんだよっ』


 寧々は熱の篭った口調でまくし立てた。


『ほら、先月のライブの練習してた時に、私のスマホで通し練習を試し撮りしたことあったでしょ? それ……今でもよく流して、馨くんの歌聴いてるんだよっ』

「え……、そうなの」

『うん! 上手だからってだけじゃなくて、落ち込んでる時に聴くとね、不思議とすごく安らげたり元気になれたりするの。私もそんな風に歌えるようになりたいから……どんなことでも教えてほしいなって!』


 本心なのか演技なのかも分からないのに、一見熱心なその言葉に馨の心は揺らいだ。

 もう既にあの恋人とも別れていたりするのではないだろうか。

 そんな都合の良い期待まで抱きそうになる。


「……役に立てるかは分からないよ。協力は、するけど」

『ありがとう! でも全然気負ったりしないでね? 私は……馨くんと一緒に何かできる自体がすごく嬉しいからっ』

「それは……どうも」

『私ね、今毎日楽しいんだ! 大好きな音楽を皆と一緒にできるし、部室に行けば皆に、馨くんに会えるでしょ? それだけでわくわくしたり、ドキドキしたりするのっ』


 彼女を忘れることを諦めてしまいそうだった。

 今彼女の中に下心があるのなら、添い遂げる未来などなくてもすがるべきだったのかもしれない、と悔やみかけてすらいる。

 そんな優柔不断な自分に嫌気が差し、馨は思わず百花に視線をやった。


 しかし、隣に百花の姿はなかった。


 ふと背中の下の辺りにくすぐったさを感じた瞬間、


「え──あっ……!」


 部屋着の裾から、中に細い手が侵入してきた。

 その手は腰や脇腹の辺りをそっと撫で上げてくる。

 逃げようとすると胴体をきつく抱き締められ、背中に柔らかいものが押し当てられた。


一花いちはなくん……騙されちゃだめ。から、悪魔の言葉なんかに惑わされないで」


 寧々には到底聞こえないほど小さく、耳のすぐ後ろで囁かれる。

 手の動きと相俟あいまって身体にぞくぞくとした感覚が走った。

 この愛撫が「助け」だとでも言うのだろうか。

 

『馨くん? ど、どうしたのっ?』

「いや、ちょっと、テーブルに手ぶつけただけ」


 素肌の上を這い回る百花の手を押さえながら返事をする。

 しかし捕まえては逃げられてを繰り返し、じわじわと焦燥感を煽られていった。


『怪我はしてない? 大丈夫っ?』

「うん。さ、最近忙しくて、ついぼんやりしてたわ」

『……そっか。淀名和先輩の課題、大変そうだもんねっ。なのにいきなり電話してごめんなさい! 私、いつも思いつきで行動しちゃうから……』

「っ全然……気にしなくていい、けど」


 寧々との会話に全く集中できない。

 もう分かったから放せと声を上げそうになるのを堪えていると──

 その華奢な両手はついに、下腹部まで滑り下りてこようとした。

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