第六十四話

 けいが言い終わるなり、鉈落なたおちは目をみはった。


「まさかのそういう話? なんかそのワード、馨の口から聞くのは意外だね」

「そ、そうかな。でもまあその、知り合いの話だし」

「ふうん? 一応質問に答えると、俺はその類の経験はないかな」


 少し考え込む仕草をしながら彼はそう答える。

 確かに彼の性格をよく鑑みればあり得なさそうだと馨は思ったが、構わず彼に尋ねた。


「……正直、どう思う? それがきっかけで好きになるって……なんて言うか、調子いいというか、節操ない気がしない?」


 咄嗟に「他に好きな相手がいたのに」と付け足すのは思い留まる。

 自分の話だと少なからず疑われている今、あまり詳細に状況を説明するのは危険だと感じたのだ。


 馨の問いかけに鉈落はすぐは答えなかった。

 ひとしきり馨の目を見つめたあとで、ようやく口を開いた。


「そんなことないんじゃない? きっかけはどうあれ、好きになったんならその気持ちに嘘をつく必要はないと思うよ、俺は」

「……そう、かな」

「まあ、それがプラトニックな好意なのか肉欲的な恋しさなのか、まずはそこを明確にすべきだろうけど。……あのさ、本当に馨の話じゃないんだよね?」

「う、うん、違うけど。なんで?」

「いや……安心院あじむさんと何かあったのかなと思って」


 思わぬところで飛び出した寧々ねねの名前に、馨は一瞬言葉を詰まらせた。

 しかし暗然とした感情が顔に出ないよう努めて首を振った。

 

「別に、寧々とは何もないよ」

「そう? ……今まで黙ってたけど、正直二人って良い感じだったよね。でも最近、馨が少しだけ安心院さんに素っ気ないというか、なんか気まずそうに見えたからさ、今の話と関係あるのかなぁなんて」

「!」


 馨は内心どきりとした。

 さすがに百花ももかとの関係まで見抜かれることはないだろうが、それでも漠然と緊張感を覚える勘の鋭さだった。


「いや……本当に知り合いの話だし、全然寧々とは何もないって」


 ぎこちなく笑ってそう答えたが、鉈落は納得できない様子で目をしばたたかせた。


「嘘、マジで何もないの? でも、正直安心院さんは……馨のこと好きだと思うけど。そういう雰囲気、感じるでしょ」

「え? いや、特には……。寧々は誰にでも分け隔てないタイプだと思うし」


 馨は白々しくそんなことをのたまう自分が嫌だった。しかし、事情を明かしてバンド内で居心地が悪くなるのは避けたかった。


 鉈落は釈然としない様子で難しい顔をして唸る。


「うーん。馨と安心院さん、お似合いだと思うんだけどなぁ」

「…………」

「ああ、ていうかごめん。話逸れちゃったな」

「いや……、全然」

「とにかく俺の意見としては、きっかけはどうあれ、本気で好きになるのに良いも悪いもないと思うよ。その気持ちが本物だとはっきりと分かっていれば」

「……そっか。なるほど」

「どう、少しは役に立ちそう? 俺もそんなに経験あるわけじゃないから、曖昧なことしか言えないけど」

「いや……助かった。ありがとう鉈ち。参考にさせてもらうわ」


 ──「その気持ちが本物だとはっきりと分かっていれば」。

 頭の中で、その言葉が反響する。

 本当は鉈落に「肉体関係から始まる感情など気のせいだ」と否定してほしかった。否定してくれるだろうと信じていたのだ。

 しかしむしろ存外に心を揺さぶられてしまい、馨は尚のこと自分の気持ちが分からなくなってしまった。


 ◇

 

 その日の夕方、課題曲を聴きながら考え事をしている内に、馨は百花の家に辿り着いていた。

 初日に渡されていた合鍵で中に入ると、既に彼女の靴がある。

 それだけで少し緊張感を覚える。

 短い廊下の間に深呼吸をし、リビングへのドアを開けた。


「あ、一花いちはなくんおかえり〜」


 ローテーブルの辺りから、百花が振り返って微笑む。

 室内には美味そうな匂いがふわりと漂っていた。

 料理をしていたのだろうかと予測したところで、ちょうど立ち上がった彼女が言った。


「あのね、作り置きもだいぶ消費してたし今日は追加で作ったの! 何だと思う〜?」


 彼女はにんまりとしながらコンロに置いてある鍋の前に立つ。

 その中に正解がある様子だったが、馨は匂いを嗅いでもよく分からなかった。


「悪い。全然分かんねえ」

「ふふ、正解はね……デミグラスソースの煮込みハンバーグでした〜」


 そう言いながら彼女は鍋蓋を開ける。温かい湯気が溢れ、中にたっぷりの赤褐色のソースに浸かった大きなハンバーグらしきものが見えた。

 人参やきのこ類、ブロッコリー、蓮根などの具材も一緒に煮込まれていて、食べ応えがありそうである。


「すご……」

「美味しそうでしょ〜、今日は洋風にしてみたんだぁ。今さっき出来たところだから、一緒に食べようよ」


 彼女は馨を見上げて穏やかな声音でそう言った。


 ◇


「ねえ、一花くんさぁ。楽器の方は練習してるけど歌はほとんどしてないよね。もしかして、私に遠慮してる?」


 ローテーブルで向かい合って食事をしながら、彼女と他愛なく会話する。


「そりゃまあ……楽器はヘッドホン挿せば音消せるけど、声はそうもいかないし」


 百花の言うとおり、馨は歌の練習ができていない。

 そのためにここに泊まっているのに、彼女の元々の生活を邪魔してしまうようで躊躇していたのだ。

 馨の返答を聞くと彼女は首を振った。

 

「気にしないでよぅ。私のせいで合格できなかったなんてことになったら困るし」

「お前がバイトでいない時にやるから、大丈夫」

「だめだめ、遠慮しないでってば。それに私、君の声好きだから嬉しいよ」

「え、ああ……」


 改めて率直に言われ、馨は照れくさくなって視線を泳がせる。

 しかし百花は特に気づかない様子で言葉を続ける。


「私が先に寝たとしても歌ってていいよ。いい子守唄になって、よく眠れる気がするし」

「そ、それは言いすぎだろ」

「んーん、全然言いすぎじゃない。だから君の好きなようにして? ……あっ」


 百花は不意に目を丸くして、何か思い出したように食事の手を止めた。


「そうだ! それで思い出したけど、私ずっと君に聞こうと思ってたことあったんだ」

「? 何」

「ごめんね、いきなり。笑わないで答えてほしいんだけど……」


 やけに神妙な顔つきで馨を見つめる。

 馨がその茶色の瞳を見返して頷くと、彼女は静かに言った。


「あのさ、一花くんって……魔法とか使える?」

「……え?」


 その質問はあまりに頓狂だった。

 馨は少し身構えていた身体から力を抜いて溜め息をついた。


「何かと思ったら……ふざけてるだけかよ」

「違うの、そうじゃなくてっ。私も自分で言ってて変だって分かってるよ? でも本当にちょっと、気になって仕方ないから」

「はあ……? いや、言うまでもなく使えませんけど」


 質問の意図が分からぬまま馨が答えると、百花は「うーん、そうだよね……そんなわけないよね」と眉根を寄せて唸った。

 何となく、先日彼女が幽霊を見たと言っていたことを思い出す。

 意外にも超常的な現象を信じがちな性格なのかもしれない。


「なんでそんなこと聞くんだよ。なんかまた妙なことでもあったのか?」


 一応取り合ってやろうと思い尋ねると、彼女は首を傾げて言った。


「実はね……結構前からずっと、不思議な感じだったの。こうやって君の近くにいたり、会話したり、目が合うだけで、気分が高まって胸の辺りがわーってなっちゃうんだよ」

「……。いや、それ……」

 

 馨は言いかけて口を噤んだ。自分で言うのはあまりに恥ずかしかったからだ。

 彼女の感じたその感覚はただ──自分に好意を抱いているがゆえに感じたものだろう。

 好きな相手の前にいれば大抵そうなるものである。

 少し考えれば分かりそうなものだが、彼女は意外と純粋なのだろうか。


 自惚れにまみれて馨がそんなことを考えていると、


「君を好きになったからそう感じるのかなって思ったんだけど、そうじゃない気がするの」


 彼女が真剣な声音で言った。


「……え」

「むしろね、って言う方が正しいような──そんな感覚」

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