第六十三話
百花はまだアルバイトから帰ってきていない。
職場は繁華街にあるカフェで、今日は閉店までのシフトらしい。
彼女がそばにいないことに、馨は少し安堵していた。
昨夜のように急な衝動に駆られることはないにしても、同じ空間にいるとやはり気が
自宅から持ってきた荷物を寝室に置き、冷蔵庫を開ける。
そして彼女に言われたとおり、作り置きの夕食を取り出した。
保存容器には全て付箋が貼ってあった。
それぞれ《豚肉のネギ塩炒め。お好みで棚にある黒
昨晩、寝る前にわざわざこれを準備したのだろう。彼女の気遣いが手に取るように伝わってきて、馨の胸はじわりと熱くなった。
コンロに置かれた小さな鍋には、きのこと豆腐の味噌汁が入っている。
こちらは彼女が今朝早くに作っていたものだ。
彼女の献身的な厚意と手際の良さに、馨はありがたみを覚えると同時に申し訳なさも感じていた。
これに甘んじているだけで本当にいいのだろうか、と疑問に思う。
『君は曲の練習をしに来たんだから。
百花のそんな言葉が蘇る。だがそもそもバンドを組むこと自体、つらいことを忘れたいと言った馨のために彼女が考えたことだ。
何か彼女にしてやれることはあるだろうか。
馨は食事を終えて片付けている間中もずっと思い悩んでいた──が。
シャワーを浴びていた時に突然、湯船を見て閃いた。
風呂の湯を沸かせばよいのだ、と。
彼女はどれだけ帰りが遅くても風呂には浸かりたいと言っていた。
帰宅の時間に合うように支度しておけば、彼女も手間が省けるだろう。
我ながら気の利いた案だ。そう思いつつ風呂を出たところで、
「……あ」
馨は自分がどこか浮き足立っていたのに気がついた。
その途端、胸の鼓動が少し速まる。
世話になっている相手に何か返したいと思ったのは確かだ。しかし、それだけではない。
昨日彼女に帰るなと懇願された時と同じように、よく分からない情に突き動かされたのだ。
──これは恋なのだろうか。
ついこの間まで別の誰かを好いていたのに、たった一度肌を重ねただけの彼女に惹かれてしまったというのか。
もしそうだとしたら、あまりに単純だ。浅はかにも程がある。まだ
馨はそんな自分に呆れ果て、蔑むような気持ちになった。
◇
午後11時を過ぎた頃、百花はようやく帰ってきた。
廊下を歩く足音がしたあと、リビングのドアから彼女が顔を見せる。
「
「お……、おう」
咄嗟に「おかえり」と口走りそうになって誤魔化す。
よく考えればただの挨拶なのだが、まるで同棲中の恋人同士のやり取りのように感じて思い留ってしまった。
「夜ご飯も食べてくれた?」
「うん。……美味かった」
「わぁ、ほんと? よかった〜」
彼女は期待していた答えが返ってきたと言わんばかりに微笑む。
その満足げな眼差しに居心地が悪くなり、馨は目を逸らした。
「で、お前は? 何か飯食ったのかよ」
「うん、私はバイト先で軽く食べたからね。ささっとお風呂沸かして入っちゃおうかなぁ」
彼女はそう言って寝室から着替えを持ってくると、馨が切り出す前に洗面所へ行ってしまった。しかし、そのあとすぐに
「えぇーっ!」
と驚いた声がして、どたばたと足音が戻ってきた。
「ねえ、一花くん! もしかしてだけど、お風呂沸かしてくれた?」
「……まあ。だって、遅くても絶対入りたいんだろ」
「そうだけどっ! 嬉しいなぁ〜っ、『ご飯にする? お風呂にする? それともわ・た・し?♡』ってやつだね! ちょっと一回言ってみて?」
「風呂だけだ馬鹿。早く入れ」
照れ隠しで適当にあしらうが、彼女は気に留めずけらけらと笑う。
「冗談だよぅ。本当にありがとうね?」
「……うん」
「やっぱりさ、優しいよね。君は」
「え? 別に……『冷たい』の方がよく言われるわ」
「ううん、ほんとは優しいよ。お人好しというか。私、君のそういうところが好きなんだよ。……あっ」
百花は口元を手で押さえ、目を丸くした。
その好意は隠さなくても既に知っていることだ。
しかし彼女は、「友達」になると決まってからは言わないようにしていたのだろう。
友人関係を続けるなら、その恋心は口にすべきではないはずなのだから。
ふと漏れ出た彼女の本音に馨の心は揺らいだ。
そして彼女を憎からず思ってしまう自分がやはり嫌だった。
「もういいから、風呂入ってこいよ」
「あ、うん。そうするかな! もう遅いし、先寝ててもいいからね?」
彼女も少々気まずく感じたのか、どことなく微笑みがよそよそしい。
「……分かった」
「今日こそちゃんとベッドで寝るんだよ? 変な意味じゃなくて、疲れ取れないし。ね!」
馨と目を合わせずにそう言うと、彼女はリビングを出て行った。
彼女が戻る前に馨は練習を切り上げ、その日は素直に寝室に向かった。
できる限りベッドの端の方に寄って横になる。
そして眠るまでの間、自分の中にある感情の正体が一体何なのかをひたすら考えた。
◇
翌朝、馨は百花とは別々に大学へ向かった。
昨夜の考え事を地下鉄の中でも続け、気づけば大学の講義室に辿り着いていた。
「おはよう、馨。先輩の試験の練習は進んでる?」
先に来ていた
「おはよ。まあ……順調かな」
「そっか、よかった。何か手伝えることあったらいつでも言ってよ」
「うん。ありがとう」
優しい言葉をくれた鉈落の横顔を、馨は思わずじっと見つめた。
彼は周りの同級生より少し大人びている。
冷静で勘が良いため油断ならないが、馨は今自分が置かれている状況を彼ならどう思うのか聞いてみたいと思った。
しかし、いきなり妙な話をして怪しまれては元も子もない──
「どうした、馨。そんなにまじまじ見て」
「あ! いや、ごめん。ちょっと考え事してた」
「ふうん? そう」
不思議そうに首を傾げる彼。
何と言って尋ねようか。頭の中で切り出す言葉を選びながら、馨は口を開いた。
「あのさ……
そう言った瞬間、鉈落は吹き出した。そして肩を震わせて笑い出す。
「馨。いきなり腰折って悪いけど、その前置き使うのは自分の話だって言ってるのと同じ」
「はっ? い、いや、違うって。ほんとに、マジで知り合いの話だから」
「へえ〜。そう? 馨がそう言うなら、まあ信じるけどさ。で、何?」
彼はまだ少し笑みを残しながら先を促す。
この様子だと知り合いの話と言うのは嘘だと思われているだろう。しかし、馨は他人の意見──否、同意が欲しくなっていた。
もしも自分が百花に恋心を抱いているとして、それは間違った感情だと誰かに言ってほしかったのだ。
「お、俺はそんな経験ないから、相談されても分からなかったんだけどさ」
そう前置きして、馨は言った。
「鉈ちは……身体の関係がきっかけで、その
✼••┈┈┈┈以下、作者より┈┈┈┈••✼
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香(コウ)
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