第六十一話

 それから約1時間後。

 けいは──意外にも無事に風呂を済ませ、百花ももかが入浴している間はバスルームの前で淡々と課題曲の練習をした。

 なぜそんな場所にいたのかと言うと、彼女に「絶対ここにいて」としつこく頼まれたからである。

 しかし彼女が風呂を出る前にはリビングに戻ったため、裸体を見てしまうなどの厄介な事態にはならずに済んだ。

 

 その後も、思いのほか平穏に時は過ぎた。彼女にを仕掛けられるようなこともなく。

 馨がリビングの隅でベースを抱えて練習を続けている間も、彼女はノートパソコンで何か作業をしているようで特段干渉もしてこなかった。

 当てが外れて拍子抜けした、というのが馨の正直な心境だった。

 妙に意識している自分の方がおかしいと思ったくらいだ。

 

 ──更に時間が経ち、馨はふと目の端で彼女がパソコンを閉じたのに気がついた。

 顔を上げると目が合う。彼女の表情が何か言いたげに見えたので、馨は借りていたヘッドホンを外した。


「邪魔してごめんね、一花いちはなくん。私もうそろそろ寝ようかなと思って」

「ああ、うん」

「それで……寝る場所なんだけど、君もベッドで寝てね?」

「はっ? い、いや……それは遠慮しておく」

「だめだよ、一緒に寝ないと意味ないじゃん? またお化けが出てきたらどうするの?」

「まだそんなこと言ってんのかよ……」

「それに予備のお布団もないし。床で寝るのは嫌でしょ? ほら、ソファだって君には小さすぎるしさ」


 彼女が指差したソファは確かに二人掛けが精一杯の長さで、横になれば膝から下がはみ出てしまうのは間違いなかった。安眠はまずできないだろう。

 睡眠は快適に取りたい、と考える馨にとっては避けたい選択肢だった。


 しかし、もしも彼女と同じ場所で寝て誘惑でもされたら?

 今度こそ己を律することは不可能だと馨は思った。


「あ。一花くんまたえっちな想像してる」

「! し、してねえって」


 彼女は口元に手をやってくすくすと笑った。


「まああのベッド広いし、両端に寄れば『一人で寝てるのと同じ』だから安心して? ……あ、君にとっては残念な話かな」

「な、なわけねえだろ。寝るならさっさと寝ろよ」

「あははっ。ごめんね、揶揄って」


 それじゃあお休み、と彼女は余裕の微笑みを浮かべて立ち上がる。

 馨は目を逸らしたまま唸るような返事しかできなかった。

 せっかく一旦は平穏な空気になったと思い込んでいたのに、単なる勘違いだったらしい。


 ◇


 彼女が寝室に入って暫くしてからも、馨は練習しながらベッドで寝るか否か悩み続けた。揶揄われたことで少し意地にもなっていたのかもしれない。


 しかし、それでも睡魔は否応なしに襲ってくる。

 馨は勝手に落ちてくる瞼を何度も擦って耐えていたが、日付が変わる頃には限界を感じて手を止めた。

 ヘッドホンを外し、ベースを傍らのスタンドに立てかける。

 周囲を軽く片付けて寝よう、そう思った矢先──


 馨は一段と強い眠気に見舞われ、我慢できずにそのままラグの上に伏した。

 身体は意思に反するほど睡眠を欲していたのだろうか。不思議な感覚だ、とおぼろげながら思う。

 だがそんなことは心地良さですぐにどうでもよくなり、馨は大人しく目を閉じた。



 ──足元から声がする。悲鳴にも近い、咽び泣くような声。

 憐れな声のはずなのになぜか嗜虐心しぎゃくしんを煽られる。

 その時ふと足元で何かが蠢き、足首を掴まれるような感覚が──

 


 突然意識が浮上し、馨は暗がりの中で性急に身体を起こした。

 場所は眠りに落ちた時と同じ、リビングのラグの上だ。

 つい今し方悪夢を見ていたはずだったが、その情景は思い返す隙もなく霧散していく。


 しかしどちらにせよ、馨には今それを気を留める余裕がなかった。

 自分の身にを感じていたからだ。

 頭はぼんやりしているのに身体はいやに熱く、心臓が早鐘を打っている。まるで性的な興奮を覚えているかのような状態だった。

 人肌が恋しくなったのか何なのか、理由は全く分からない。

 とにかく馨は漠然と──それを満たすものが欲しいと思った。

 

 不明瞭な視界の中、ふらりと立って足を前に進める。

 そして躊躇せずに押し開けたのは寝室のドアだった。


 カーテンの隙間から月明かりが差す室内。

 ベッドの奥側の端で、百花が背を向けて眠っている。

 反対端からベッドに上がって彼女に近寄ると、甘酸っぱい香りが色濃くなった気がした。


 静寂の中、自分の心臓の音だけが煩く響く。

 荒くなる息を殺して彼女を覗き込もうとしたとき、


「うぅ……ん」


 彼女が悩ましげに唸り声を漏らし、仰向けに寝返りを打った。


 薄い部屋着では隠しきれない豊かな胸。微かに開いた桜色の唇。

 馨はその無防備な姿に抗いがたい昂りを覚え、覆い被さるようにして彼女に顔を近づけた。

 彼女の柔らかさを味わいたくて疼く両手の衝動を抑えるため、シーツを握り締める。


 頭の片隅では理性の残り滓が自分を咎めていた。

 眠っている相手にこんなことをするなんて、あってはいけないことだ。

 しかしそうと分かっていても、どうしてか無性に欲しくてたまらない。あの夜のように全てをかなぐり捨てて求めたい。

 わずかに首を身じろがせた彼女の顎に手を添える。

 このままでは唇が触れてしまう。

 そうしたらきっともう歯止めは効かない。

 全てが終わったあとで、自分を軽蔑するとしても。


 ──と、その時。

 頭の中に突如、がさつな男性の笑い声が響き渡った。


『据え膳食わぬは男の恥だからなぁ!』


「はっ……」


 馨は弾かれるようにして彼女から離れた。

 響いてきたのは、叔父であるそうの声だった。


 数年前、初めての恋人との関係を真剣に悩んでいた馨に向かって、彼が軽率に言い放った言葉だ。

 創のことは慕っていたが、その時ばかりは憎たらしかったのを覚えている。そんな下品な考えにすがれたら苦労はしない、と。

 

 当時の苛立ちと羞恥心が蘇り、身体の熱が嘘のように引いていく。

 後に残るのは自己嫌悪だけだった。

 

 馨は眠る彼女から目を逸らし、苦々しく呻いた。


「据え膳なんかじゃないだろ……」


 そして衝動が不意に湧き上がった理由も分からないまま、逃げるように寝室を離れた。


 ◇


 翌日の昼休み。

 馨は眠い目を擦りながら、部室へと続く階段を登っていた。

 昨夜は結局リビングのソファで眠れぬ夜を過ごした。起きてきた百花は呆れ驚いていたが、彼女には当然理由を話していない。

 

 部室の扉の前に立って一つ息をつく。

 開ける前から中は騒がしい気配で満ちている。

 この16畳ほどの空間は、勿論ライブ前には数あるバンドが代わるがわる練習をする場所である。

 しかし普段は、昼食を摂るだけでなく隅に置かれた古いテレビでゲームをして騒いだり昼寝をしたりと、部員が思い思いに過ごす会館のような場所なのだ。


 レバーを下げて扉を押し開けると、中には十人ほど部員がいた。音に気がついた同級生や先輩が顔を上げて軽く挨拶をしてくる。

 馨はそれに応えたあと、壁際に置かれた古い革のソファの傍に悠大ゆうだい鉈落なたおち、そして寧々ねねがいるのを見つけた。


 そちらに向かおうとすると、気がついた悠大がいきなり勢いよく立ち上がる。


「あ、来た!!」


 彼はそう言って散らかった床を大股で歩いてきた。

 それを見守る鉈落と寧々は、どこかばつの悪そうな顔をしている。


「? お疲れ、悠だ──」

「おいっ!!」


 彼は挨拶もなく馨の両肩をがっと掴み、真剣な顔で言った。


「お前……俺の知らぬ間に何やっちゃってんのよ!!」

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