第六十話

「はい、召し上がれ♡ 昨日の余りしかなくて申し訳ないけど!」

「……い、いただきます」


 今けいの目の前には、何とも美味そうな食事が並んでいた。

 三つ葉の飾られた親子丼、湯気の立つ味噌汁。二つの小皿には生姜を添えた茄子の素揚げと、なめ茸のかかった冷奴がよそわれている。

 そしてローテーブルを挟んだ向かいには、嬉しそうに微笑む百花ももかがいた。


 ──先ほど馨が泊まると言った際。

 彼女はひとしきり大喜びして馨をテーブルに着かせ、キッチンに向かった。

 それから十数分待たされた後にこの食事が運ばれてきたのである。

 馨は定食屋にでも来たかのような気持ちになっていた。


 期待に満ちた彼女の視線に強く促され、親子丼を一掬ひとすくい口にする。

 

 咀嚼してすぐに、馨はその美味さに思わずはっとした。まろやかな卵は出汁と甘みが効いていて、柔らかい鶏肉とつゆの染みた熱い米によく合っている。

 この逸品を作ったのが目の前の彼女だということに驚嘆し、馨は彼女を見つめた。


「これ……お前が作ったの」

「うん、そうだよ。親子丼好きだから、よく作るんだぁ」

「マジか……」

「ふふ。どう? 美味しい?」

「……うん。正直、めちゃくちゃ」


 そんな言葉が口をいて出る。不本意ながら、そう言わざるを得ないような文句無しの出来だった。

 ここに来てから、もう何度も彼女の新たな一面を見せられている。馨は再び眩暈めまいがするような感覚に陥った。

 

「わあ、ほんと? 嬉しいなぁ。ほら、他のも食べて」


 嬉しそうに笑う彼女の顔に、先ほどの怯えた様子は欠片も見えない。

 勿論それに越したことはない。しかし、あの涙は演技だったのかと少し疑問にも思ってしまう。

 素直な言葉を吐いた手前、照れくささもあって馨は彼女をじとりと見据えた。

 

「てかお前……さっきあんなにビビってたのに、随分ずいぶん元気そうだな」

「え? そんなの当たり前じゃ〜ん。君がいてくれれば安心だもん。練習場所を提供して君の役にも立てるんだし。怖くないどころか嬉しいよ」

「……本当は幽霊なんて見てなかったんじゃねえのか」

「見たよぉ、失礼な。確かに見間違いの可能性もあるけど、怖かったのは本当だもん」


 不服だったのか、少しむくれる彼女。

 この振る舞い自体が嘘の可能性もある。馨はまだ少しだけ疑っていたが、再び料理を口にするとそんな不安も一時いっとき有耶無耶になるのだった。


 ◇


 午後8時すぎた頃。

 食事を済ませた馨は、百花とともに洗面所にいた。ここに宿泊するにあたり、家の勝手について各所で説明を受けていたのだ。


「そういえば君、普段は湯船に浸かってる?」


 バスルームに立って湯を張りながら、彼女が問うてくる。

 馨は首を横に振った。


「面倒だから、いつも大体シャワーだけ」

「え〜? 私なんてバイトで遅くなっても絶対入るのにぃ。疲れ取れないじゃん?」

「分かってるけど、さっさと済ませて早く寝たいんだよ」

「ん〜、なるほどねぇ。分からなくもないけど。……まあ私は入るから、君も気が向いたら入ってね」

「……どうも」

「それじゃあ、お湯が貯まるまで待とっか。ちょっと寝室についてきて〜」


 バスルームから出て手招きする彼女。馨はそのあとに続いた。


「寝るときの服貸してあげる。確か一つだけあったんだよねぇ」


 彼女はそう言って寝室に入ると、クローゼット内の収納棚を開ける。

 馨はその間もう一度寝室を見回していた。

 洒落た間接照明とクイーンサイズのベッド、その傍らにラックがあるくらいで他に家具はない。

 当然、先ほど彼女が言ったような不気味な物体も見当たらない。


「あった! これこれ〜」


 彼女が声を上げ、畳まれた服を馨に差し出した。

 薄手で着心地の良さそうな黒のシャツと七分丈のズボンだったが、それを広げた馨は違和感を覚えて襟元を見た。

 タグにはLLと表記されている。

 彼女が自分用に持っていたオーバーサイズの何かを貸してくれるのだろうと馨は思い込んでいたが、だとするとあまりに大きすぎるのだ。


「……さすがにでかすぎだろ」

「んー、やっぱりそっか。でもそれ一着しかないんだよなぁ」

「誰のだよ。こんなでかいの」


 いぶかしんでそう尋ねると彼女は苦笑いを浮かべた。


「それはまあ、『在りし日の人』のだよ」


 妙な言い回しだったが、つまり以前の恋人という意味だろう。

 馨は広げた服を一瞥した。たくましく背の高い架空の人物が頭に浮かび、何となく嫌悪感を覚えた。


「なんで取っといてんだよ。あっても邪魔だろ」

「取っといたわけじゃないよぅ、他のは全部捨てたし。それはついこの間まで、買ったままの状態で奥底に眠ってたの。まだ誰も着てないから新品だよ?」

「……ふうん」

「もしお気に召さないなら、そうだなぁ……下着だけで寝る? 私も付き合ってあげるけど」

「なっ、なんでだよ。別にこれでいいわ。風呂のあと、着替える」


 未使用なら何も不快に思う必要はない。

 馨は適当に服を畳み直し、ぶっきらぼうに言った。


 ◇

 

 寝室から出てキッチンに近寄ると、百花は冷蔵庫の扉を軽く手で叩いた。


「私がバイトで夜いない時は、この中の作り置きとか自由に食べてね。それと、洗い物はシンクに置いてくれるだけで大丈夫だから」

「うん……いや、少しは俺もやるけど」

「だめだめ、君はここに曲の練習をしに来たんだから。淀名和よどなわ先輩の課題をクリアしてくれればそれでいいの。えーとそれから……」


 馨にそれ以上何も言わせないためか、彼女は半ば独り言のように呟いて部屋の中を見回す。しかし、粗方家の勝手については説明し終えたように思える。

 彼女は少し考える仕草をしたあと、ふと馨を振り返ってじっと目を見た。

 

「そうだ、もう一つ忘れてた。この1週間、君に絶対守ってほしいことがあるんだ」

「え、うん……何?」


 少し緊張しつつ先を促すと、彼女は玄関の方に向かうドアを指差した。


「君が一人でいるときは、インターホンが鳴っても絶対出ないでほしいの」

「え……ああ。まあ、出るつもりはなかったけど」

「ならよかった。例えばドア叩かれたりしても、どんな人が来たのか覗きに行ったりしないでね」

「うん。……なんか厄介な奴でもいんの?」


 不審者か何かに悩まされているのかと勘繰って馨が尋ねると、彼女は複雑な表情で首を横に振った。


「んー、そこまでじゃないよ。ただトラブルになると困るから」


 彼女が言い終わったのと同時に──バスルームの方から電子音が聞こえてきた。


「あっ、お風呂いっぱいになったみたい!」


 百花は嬉しそうな声を上げ、身を翻して廊下に出た。

 しかしすぐに振り向き、悪戯っぽく馨を見つめる。


「そうだ、一花くん……またお化けが出たら嫌だし、お風呂一緒に入ろうよ?」

「は? い、いや、入んねえよ。何言ってんだお前」

「でも今想像したでしょ」

「してねえ。ふざけんな」


 残念ながら、彼女の指摘はあながち間違っていない。しかし馨は口が裂けても白状したくなかった。

 彼女はそれを知ってか知らずか、可笑おかしそうに笑う。


「冗談でしたって言いたいところだけど、怖いのはほんと。君が入ってる間、私お風呂場のドアの前で座っててもいいかな?」

「……ま、まあ、それなら別に」

「ありがと! でも安心してね、覗いたりはしないから。──覗かなくても、もう知ってるし♡」


 そう言って蠱惑的に目を細める彼女に、馨はもはや何も言うことができなかった。

 そして、これこそが自分に課せられた本当の試練なのだ、と切実に思うのだった。

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