第五十九話
「な、何かって……何がいたんだよ。虫?」
「ちがう、もっと大きいのっ……でも、何だか分かんないっ」
「はあ? 分かんない?」
「うぅう……ふえぇんっ」
憐れな泣き声を上げ、彼女は身体を更に震わせる。まるで思い出したくないと言わんばかりだ。
とにかく抱き合ったままでは宜しくないと思い、馨は彼女を半ば引き摺ってリビングのソファに連れて行った。
「とりあえず俺が見てくるから、ここにいて」
「えっ……!? だ、だめ、行かないでっ」
「何か分かんなかったんだろ? だったら、確かめないと対処のしようがねえじゃん」
「でも、でもっ……」
「大丈夫だから、待ってろって」
馨は腕にしがみつく彼女の手を外し、一人で寝室へと向かった。
室内に足を踏み入れ、右奥のクローゼットと対峙する。
半開きの折り戸は妙に不気味な物体と化していたが、馨は泣きじゃくる彼女を見たせいかむしろ冷静だった。
恐怖よりも別の何かが勝っていたのだ。
物言わぬ戸に近づき、手を伸ばす。
そして、勢いよく開け放った向こう側には──
ただ衣服や収納ケース、日用品の予備があるだけだった。
もう少しよく観察したがやはり不審なものはない。
念のため最後に寝室全体を点検したあと、馨はリビングへ戻った。
百花は青褪めた顔をしてソファで縮こまっていた。いつもの飄々とした様子はどこへやら、すっかり怯えた様子で馨を見つめている。
「
「うん。別に何もいなかったけど」
「ええっ、そんな……!」
「お前何見たんだよ? どんな形だったとか、それくらいは覚えてない?」
馨の問いに、彼女は不安そうに眉根を寄せて口を開いた。
「か、形は──人の頭みたいだったっ……」
「……頭?」
「黒くて、ながーい髪の人の頭が……後頭部を向けて、ケースの上にあったように見えたのっ」
やけに不気味な証言だったが、馨は特に何とも思わなかった。実際、クローゼットには何もいなかったのだから。
「服か何かを見間違えたんだろ。結局何もいなかったし」
馨がそう言うと、彼女は目を丸くした。
「幽霊かもしれないじゃん? 見えてないだけで、まだ近くにいるかもっ」
「何だそれ……幽霊なんて存在しねえよ」
「存在するよっ! だって、写真とか動画にも映ったりするじゃんか?」
「あんなの作り物に決まってんだろ」
「本物だってあるでしょ? 私の友達も言ってたしっ」
馨が否定したにもかかわらず、彼女はまだ不安が拭えない様子だった。
──思いのほか、怖がりなのかもしれない。
またしても彼女の意外な一面に気づいてしまい、先ほど触れた時に感じた昂りも
早くこの家から退散しなければ。
「そんなことよりキーボードは? 俺もあまり長居できないし、オカルト談義はまた今度にして──」
言い終わるより早く、突然彼女が弾かれたように立ち上がった。
そして目を潤ませて迫ってくると、馨の腕をぎゅっと掴んだ。
「か、帰っちゃうの? 私のこと、一人にするのっ?」
「え? な、何もなかったんだから別にいいだろ」
「やだやだっ行かないで! ていうか、もう今日から1週間泊まって! 好きなだけ曲の練習していいし、何でも言うこと聞くからぁっ」
その泣き顔は、劣情と庇護欲を煽るものだった。
本気で怯える彼女の前で馨は煩悩に負けそうになり、そんな自分に嫌悪感を覚えた。
「ば、馬鹿。どっちにしても今日は、帰るって」
「だめ! 私一人で寝てるときに幽霊に襲われたらどうするのっ?」
「だから、んなもんいねえんだよ。とにかく今日は帰る」
払うように腕を振るうと、意外にも簡単に彼女の手は離れた。
拍子抜けして彼女の方を見やる。
彼女は涙を湛えて頬を膨らませ、どこか意を決した顔をしていた。
「分かったっ……どうしても帰るって言うなら──
──今すぐ、私とえっちなことして」
「…………は? え……な、何言ってんの」
彼女の思いも寄らない要求に、馨は耳を疑った。
動揺する頭の中を、反射的に駆け巡るあの記憶。
彼女の素肌の滑らかさを馨は既に知っている。
煽情的な表情、声、匂い、体温。
それらは全て確実に「今思い出してはいけないもの」だった。
「な、何、なんで急に、そんな話になるんだよ?」
「一花くん知らないのっ? 幽霊ってえっちなことが嫌いなんだって。死と生で、相反するものだから。確かに元々『繁殖のための行為』なんだし、『生』そのものだもんね」
「は、繁殖、って……」
自分の記憶と彼女の言葉が混じり合い、脳裏にとんでもない妄想を生み出す。
思わず後退りをすると、その分だけ彼女は真剣な顔つきで迫ってきた。
「1週間泊まるのが嫌なら、私と……して」
彼女の声が震えているのは、幽霊などというものを本気で恐れているからなのか。しかし馨にはそれを気にかける余裕はなかった。
彼女の肢体に、艶めく唇に、目が行く。
鼓動が
このままではまた彼女と順序を間違えてしまう。
馨は慌てて彼女の肩を押し返した。
「ぜっ、絶対にしない。てか、友達になるって言い出したのお前だろ。意志弱すぎるんじゃねえの?」
「だって! 今すっごく怖いんだもんっ。お化け本当に苦手なのっ。君との約束よりも、怖いものを遠ざける方が今は優先なんだよっ!」
「はあ? んなことあってたまるかよ、またなんか企んでるんだろ?」
「違うもん! じゃあえっちできないなら1週間泊まってよ。どっちの方法でもいいから、とにかく私のこと助けてよっ!」
彼女は溜まった涙を光らせ、切実な眼差しで馨を見据えてくる。
馬鹿馬鹿しい。
あり得ないほどに間の抜けたやりとりだ。
なのに馨は、頓狂なことを
──全てはこの蠱惑的な空間のせいなのか。
あるいは、いつの間にか湧いていた情のせいなのか。
「お前、何なんだよもう……訳分かんねえ」
馨はその場にしゃがみ込み、額に手を当てて項垂れた。
頭上から彼女の声が降ってくる。
「なんか君のこと困らせてるのは分かってるっ。でも、とにかく一人にしないでほしいのっ。1週間ここに泊まれば君も練習できるし、お互いにとってメリットしかないでしょ? ね?」
「いや……」
「泊まってくれないの? じゃあやっぱり、今すぐ私とえっ──」
「だ、駄目だって。お前、もう少し自分の身体大切にしろよ」
「私は身体より心の方が大切なの!」
百花は少し怒ったような声で訴えた。
「怖い思いするくらいなら、身体を差し出して助かった方がいいっ。それに、相手が君なら少しも嫌じゃないよっ。お願いだから助けてっ!」
「……はあぁ、もう」
馨は思考を乱されて言葉が出なくなっていた。
彼女と行為に及ぶことは二度とすまいと誓っているが、それも
信用できないのは彼女ではなく、自分自身だ。
──しかし同時に、純粋に手を差し伸べたいとも思っていた。
彼女に少し懇願されただけなのに、数日なら幾らでも
それは恋などという綺麗なものではなく、もっと浅ましくて厄介な別の何かだろう。
だが彼女に対する情であることは間違いなかった。
「……分かった。もう分かった」
馨は観念し、深く溜め息をついて彼女を見上げた。
「今日から、1週間……ここに泊まって練習する。それで、いいだろ」
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