第五十八話

 長らく乗った地下鉄を、最寄り駅の一つ前「どういけ」で降りる。

 先に改札を抜けた百花ももかの背を見て、けいの心はざわめいていた。

 とうとうここまで来てしまった、と。


 落ち込んだ百花に絆されたのは間違いなかった。

 馨自身もその訳は判然としていないが、とにかくこれ以上彼女の悲しげな顔を見たくないと思ったのだ。 

 

 美麻みあさ周辺とほぼ変わりない住宅街を二人で歩く。先刻よりも空は夜の色に近づいていて、街灯が点き始めていた。

 百花によると自宅は駅からそう遠くないらしい。

 その言葉どおり、十数分も歩かないうちに百花はとあるアパートを指差した。

 戸数は少なそうだが、比較的新しい建物だ。


「あれが千恢ちひろちゃんの貸しスタジオだよ」

「ただのアパートだろ」

「そうだけどぉ、ちょっとはノってくれてもいいじゃんか」


 車数台分の青空駐車場を横切って建物内に入る。

 集合ポストのあるエントランスは、広くないが真新しく小綺麗だった。

 左右の壁にはフットライトが取りつけられている。

 その光は淡い翡翠色をしていて、馨は物珍しく思いながら眺めた。


「それ、綺麗な色だけど雰囲気がラブホテルみたいだよねぇ」


 百花がそう言って笑う。

 馨は返答に困った。行ったこともない上に、今までの生活圏内ではあまり見かけなかったからだ。

 しかし、露骨な単語のせいで妙な緊張感を覚えたのは言うまでもない。


 内階段を3階まで上がり一番奥の部屋の前まで来ると、彼女は特に躊躇もなく鍵を差してドアを開けた。


 その途端、ふわりと漂ってくる甘酸っぱい香り。

 いつも彼女の服や髪から仄かに発せられているものと同じだ。

 決して強くはない香りのはずなのに、眩暈めまいがするようだった。


「はい、どうぞ〜」

「……お邪魔します」


 ドアを押さえた彼女に促され、馨は中に足を踏み入れる。

 小振りな玄関からは短い廊下が伸びていて、奥に磨りガラスの嵌まったドアが見えた。その途中にある引き戸は、洗面所やトイレなどだろう。

 玄関を施錠した百花は、廊下で足を止めていた馨を追い越して奥のドアを開けた。


 馨はそこはかとない不安を覚えながら前に進む。

 先に入った百花が電気を点けると、目の前にはすぐに女性のものと分かる雰囲気をまとった部屋があった。


 くすみがかった淡い桜色の壁に白いフローリング。カーテンやフェイクファーのラグは落ち着いたダークピンクで揃えられ、その他の調度品はオフホワイトを基調として部屋に馴染んでいる。

 

 百花はパンケーキ型のクッションをソファから下ろし、部屋の中央にあった猫足のローテーブルの前に置いた。


「今飲み物用意するから、ここ座ってて〜」

「い、いや、見るだけだって言っただろ」

「えっ? お茶くらいは出させてよぅ。私も喉乾いたしさ」

 

 ほら座って、と再度手で促し、彼女は入り口近くに壁付けされたキッチンへと行ってしまう。

 馨はそれ以上強く拒めず、腰を下ろすしかなかった。

 手に触れるラグの柔らかい感触にすら戸惑う。


 やがて、百花がお茶の入ったグラスを運んできて向かいに座った。

 彼女は本当に喉が渇いていたのか早速半分ほど飲んだあと、馨の方を見る。


「そうそう、肝心のベースとキーボードは寝室にあるんだ。今一息ついたら出して見せてあげるね」

「ああ……うん」


 一応頷いてはみたものの、既に馨はここで練習するのは容易でない気がしていた。それほどこの空間は、意志を揺らがせる誘惑で満ちているのだ。


「ベース用のアンプもあるから、必要なときに繋いで練習できるよ。ここ意外と音漏れしないしね」

「でも、さすがに隣とか真下には聞こえるだろ」

「それは心配ご無用。隣の人は夜いないし、真下の部屋は今誰も住んでないし。多少騒がしくしても大丈夫だよ」


 そう言って百花は悪戯っぽく笑った。

 他意はないのかもしれないが、その言動は逐一ちくいち人を惑わせる。

 馨はお茶に口をつけて妙なもやもやを誤魔化した。



「……さて! じゃあ今持ってくるね。ごめんね、お待たせしちゃって」


 恐らく10分もないほどの休憩の後、彼女は空になったグラスをテーブルに置いて立ち上がった。

 そして隣室に繋がる引き戸を開け、振り返って手招く仕草をする。


「あ、ちょっとこっち来てもらえるかな。手伝ってほしくて」

「……うん」


 馨は部屋の前まで行ったが、そこで立ち止まった。

 足を踏み入れるのを躊躇したからだ。


「楽器は普段こっちに仕舞ってるんだよねぇ」

 

 彼女はそれに構わず、入って右奥にあるウォークインクローゼットを開けている。

 淡紫色の壁と白い床、洒落た間接照明。部屋の雰囲気はリビングと似通っている。

 しかし、その六畳弱の部屋の中央に置かれたベッドだけは違和感を放っていた。

 どう考えても大きいのだ。


「何だよ……このベッド。でかすぎだろ」

「え〜? いいでしょ、クイーンサイズで広々だよ」


 クローゼットからベースを運び出した彼女は、振り返って不満そうな顔をした。


「私家にあまり物を置かない派だけど、ベッドだけは大っきいのにしたかったの」

「は……? なんで」

「だって、大の字でダイブできるでしょ? そうやって日々の疲れを癒せるの、最高じゃん。憧れだったんだよね」

「……お前ならシングルで十分だろ」

「ん? 何かな一花くん、私のことチビって言いたいのかな?」

「別にそこまで言ってないけど。……ていうかそれより、楽器」

「ああ、そうだね。このベースさ、スタンドごとリビングに持って行ってもらってもいい?」


 彼女から引き受けたベースを、馨はローテーブルの辺りまで運んだ。

 床に下ろしてすぐに寝室に戻ろうとしたが、弦やボディの状態が気になったので、ついつい傍に屈んで観察する。

 弦に錆や変色は見られず、本体にも傷ひとつない。

 よく手入れされている様子だった。


 弦の感触も確かめたい。

 そう思って手を伸ばした瞬間──


 寝室から、小さく息を呑むような声が聞こえた。


 馨は顔を上げ、寝室の方を振り返った。

 だが馨から見て彼女のいる位置は死角になっており、様子が分からない。


「百花?」


 立ち上がって寝室に向かう。

 返事がないのを不思議に思いながら、入り口に立って中を覗き込もうとした途端、


「一花くん……っ」


 部屋を飛び出してきた彼女にいきなり抱きつかれた。


 咄嗟に受け止めたが、そのせいで柔らかな身体に触れてしまう。


 罠だったのか──と馨は反射的に思った。

 思わずそう疑ってしまうような行動だった。


「なっ、何だよ急に……!」

 

 すぐに引き剥がそうとしたが、彼女は両腕にぎゅっと力を込めて離れない。

 胸に頬を押しつけてくるその表情にはいつもの余裕も見えない。

 否応いやおうなしに思い出される、あの夜と同じ体温。

 鼓動が速まり身体が熱を帯びる。

 押し返すためにその腕に触れるだけでも、劣情を催してしまう。

 

「は、離れろって、指一本触らないって言ってただろ……!」


 狼狽えながらも、かろうじて冷静に言う。

 すると彼女は──


 馨を見上げた。

 その身体は、ひどくいた。


「えっ……な、何。どうした」


 そこで馨は、やっと違和感に気がつく。

 彼女は怯えた顔をしていた。明らかに、人を籠絡するための表情ではなかった。


 状況が飲み込めずにいると、彼女の細い手がおもむろに動き、その背後にある寝室を指差した。

 正確には、その右奥。


 そして彼女は震えた声で言った。


「クローゼットに……、何かいる……!」

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