第五十七話
「ふ、ふざけてないで真面目に考えろよ。家になんか行けるわけ……」
「私は真面目だよ? 本当に無料だし」
「そういう問題じゃねえ」
「でも、最適な条件だと思わない?」
百花は馨の隣の席まで来て座ると、椅子を寄せてきた。
嗅ぎ慣れつつある甘酸っぱい香りが微かに鼻を
「なっ、何だよ、近いって」
「無料なだけじゃないよ。なんなら練習の間は泊まっていい。しかも手作りの食事付き。私の料理すっごく美味しいんだよ? いいでしょ」
彼女のプレゼンは馨にとって魅力的に聞こえた。普段一人で味気ない生活を送っているせいなのだろうか。
しかし、よりによって彼女の家に行くなんて到底考えられなかった。何も起こらないとは言い切れないからだ。
馨は頑なに首を横に振った。
「……いや、そんなの駄目に決まってる」
「でも今揺らいだでしょ? 条件いいなぁって思ったでしょ?」
「お、思ってない。ていうかだから、そういう問題じゃねえって言ってんだろ」
「じゃあどういう問題なのかな?」
「それは……」
至近距離で蠱惑的な眼差しが射抜いてくる。
馨は答えようとしたが、どうにも言いやすい表現が浮かばなかった。
「
彼女は少し間を取ってから続ける。
「それに、君には『好きなことを一生懸命やってつらいことを忘れる』っていう大事な目的がある。ちゃんと私も分かってるから、絶対邪魔したりしないよ」
「……」
馨はその言葉を聞いて、密かに自覚した。
自分は彼女を信用していないわけではない、と。
むしろ一貫した姿勢で接してくる彼女を受け入れ始めていた。
──しかし、唯一彼女が内包する妖しさだけが、完全な安心感を抱くことを
そんな感覚が、漠然と馨の中にあった。
「お前のこと、信じてないわけじゃない。でも家に行くのは……駄目だって」
「だけど、早く練習できる場所見つけないと。もし合格できなかったら振り出しに戻っちゃう。私そんなの嫌だよ?」
「分かってる。だから我慢して部室でやるって言ってるんだよ」
「あんな場所より私の家の方がいいのに……どうしたら君に納得してもらえるのかな?」
「ど、どうもこうもない。絶対家には行かない」
悩ましげな顔をして首を傾げる百花にそう言って、馨は席を立った。
肩が触れ合うほど傍にいるせいで、どうにも落ち着かない気分になったからだ。
特に意味もなく窓辺に近づくと、空が暮れ始めていた。駅まで続くサイクリングロードの並木が、夕焼けを背にして黒い影絵のように見える。
早く帰らなければ。
景色を見てそう思った矢先、
「ねえ、一花くん」
百花が窓辺に近寄ってきた。
切実な表情で馨を見つめている。
「な、何」
「このあと、用事あるかな?」
「いや、ないけど」
「じゃあこのまま私の家に見学においでよ」
「……え?」
「練習場所として使うかどうかは、それから判断すればいいと思うんだ」
案の定の厄介な誘いに、馨は頭が痛くなるのを感じた。
「見学だって家に上がってるのと同じだろ」
「全然違うよ。今日はただのお試しなんだから」
「いや、意味分かんねえよその理屈……」
「とにかく見に来てほしいな。見終わったらすぐ帰してあげるから、ね」
「う、うるせえな。何て言われようと駄目なもんは駄目だって」
馨は彼女のアプローチを
さっさと帰ればよいのだが、残念なことに二人は家の方向も同じである。このままでは帰り道でも根気強く説得され、なし崩し的に誘いに乗ってしまいかねなかった。
何としても今ここで断らなければ。
「一花くん。本当にただ覗いてみるだけでいいから」
「だから、家に行くこと自体無理だって」
「君には指一本触れないよ。約束するから」
「部室で練習するって言ってんだから、もういいだろ」
「
僅かに彼女の声音に寂しさのようなものが混じる。
しかし馨が断っているにもかかわらず、引き下がる気はないようだった。
眼差しが真っ直ぐで流されそうになる。
馨はそれに揺らぐ自分に苛立ち、その感情のまま彼女の方を向いた。
「こんなに断ってんだから、いい加減諦めろよ。とにかく俺は行かないって」
「どうして? 私は何も企んでないし、何も問題なんてないのに」
「問題あるだろ。大体お前、『友達』だからってあまりにも距離詰めるペースが速すぎるんだよ。俺はもう絶対、あの時みたいに間違ったことは──」
言葉の途中で、馨は思わず口を
百花の表情が翳っていることに気づいたからだ。
悲しげに眉尻と視線を下げ、唇を少し噛んでいる。
「私……君の力になりたいだけなんだよ。信用、ないかもしれないけど。それは本当なの。君につい馴れ馴れしくしちゃうのは、私が不器用だから……ごめんね」
暗い声音で彼女はぽつりと言った。
泣いてこそいないが、瞳に切なさが滲んでいる。
その姿を見て、馨はライブの日の夜を思い出した。
力になりたいと言って泣いていた、あの時の姿と重なる。
──彼女の想いは心からのものだ。
それはとうに分かっていた。
なのに今彼女を拒絶したら、あの夜と同じ悲しい思いをさせてしまうのではないか。
そんなことはすべきではない。したくない。
馨は直感的にそう思った。
「嫌がってる君に強制するつもりはないから。大人しく他に協力できること、探すよ。本当にごめんね、一花くん」
寂しげに微笑んで彼女は言う。
一度突き放してしまった後悔で胸が痛む。しかしこれ以上迷っている暇はない。
馨は意を決して、踵を返しかけた彼女を引き留めた。
「……百花」
「ん、何かな」
「俺もごめん。ちょっときつい言い方した」
「ううん……気にしないで。さ、そろそろ帰ろっか」
「だ、だからその。本当に、ただ見るだけなら……いいけど」
「えっ?」
微かに
「それって、来てくれる、ってこと?」
「……うん。せっかく、お前が提案してくれたから」
「ほんとに……? やったぁっ」
「でも、見たらすぐ帰るからな」
「勿論だよ、約束する! ありがとっ一花くん」
百花は満開の笑顔で嬉しそうに頷いた。
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