第五十話

 その日最後の講義を終えた後。

 けいはバンドの話し合いのため、学生会館2階のラウンジにいた。


寧々ねねちゃん遅いなぁ、どしたんだろ? もう講義終わってんのに」


 そわそわとスマートフォンの画面を見て悠大ゆうだいがぼやく。

 彼と鉈落なたおちは既に来ているのだが、寧々だけがまだ姿を見せていない。


 つい先日までと違い、馨は寧々の顔を見なくて済むのならその方が良いとさえ思っていた。用事で来られなくなったのかもしれないと、僅かな希望を抱く。


 しかし、人生はそう楽にはいかないものだ。

 

 ラウンジに慌てたような足音が響く。

 悠大や鉈落と共に振り向くと、寧々がこちらへ駆けてきていた。


「ごめんなさい! ちょっと先生に捕まっちゃってて……!」


 辿り着くなり彼女は息を弾ませて頭を下げた。

 膝丈ワンピースの淡いミントグリーンとブラウスの純白が、柔らかく清楚な雰囲気を醸し出している。

 遅刻して落ち込んでいる以外は、当然だが特に態度に変化はない。


「全然! ほら、座って座って」


 悠大に促された彼女は馨の正面の椅子へ回る。

 ──腰掛ける直前で、目が合う。

 すると彼女は、頬を染めて嬉しそうに微笑んだ。

 今までと変わらず純真な笑顔。

 馨は背筋がぞくりとするのを感じた。


「あのさあ寧々ちゃん! 金曜の打ち上げで、俺らのバンド名『ainyアイニー』にしようぜってなったんだけど──」


 悠大が早速話し始める。

 それを嬉しそうに聞く寧々の表情や仕草は、馨を更に戸惑わせた。あの録音の声と同一の人物とはとても思えなかったのだ。


 これから面と向かって会話をして、彼女の振る舞いに再び騙されずにいられるのだろうか。

 馨は彼女にハンカチを渡すことですら不安に思った。


「おーい、馨っ。聞いてっか!?」


 突然悠大に顔の前で手を振られ、慌てて顔を上げる。


「あ……ごめん、何?」

「だーから、次のライブの話! なんかやりたい曲とかあるかって聞いてんの。日程はまだ確定してねえらしいけど、例年どおりなら次は夏休み中って先輩言ってたじゃん?」

「ああ、うん。そうね」


 頷いてはみせたが、寧々の視線が正面から注がれると何も頭に浮かんでこなくなる。


「み、皆は何かない?」


 その注目から逃れようと、馨はそう尋ねた。

 悠大か鉈落が答えるだろうと思っていた矢先、


「あの! じゃあ、私いいですかっ」


 寧々が小さく手を上げた。

 予想外のことで面食う馨をよそに、他の二人に促された彼女は鞄からスマートフォンを取り出す。


「えっと、"embraceエンブレイス shylyシャイリー" っていう曲なんだけど、最近すごく良いなと思ってて。ちゃんと楽譜スコアもあるんだっ」

 

 そう言いながら彼女は動画サイトを開く。

 履歴をいくつか遡っていき、とある動画を指でタップした。


 柔らかな音色でピアノの伴奏が流れ出す。

 全員が黙って耳を傾ける中、微かなブレスのあとに歌い始めたのは女性だった。


「え、女性ボーカル?」


 鉈落が不思議そうに聞くと、寧々は黙ったまま顔を赤くする。

 まさか彼女に歌いたい願望があったとは思いもせず、馨も些か驚いた。


「寧々ちゃん歌いたかったんか! えーやん声可愛いし! この曲に合うんじゃ……」


 悠大が案の定はしゃぎ出した時──女性の声の後にすっと男性の歌声が入ってきた。


 二人の歌声は交互に掛け合いをしていき、時に合わさって心地良いハーモニーやアンサンブルを奏でる。

 歌われているのは、純粋な恋する気持ちを綴った詞だった。


 その美しい曲の構成が、馨は恐ろしいと思った。

 寧々の方を見ることができなかった。


「もしかして寧々ちゃん、デュエットやりたいってこと!?」


 悠大が、馨と彼女を交互に指差して興奮気味に言う。

 すると彼女は小さな声でうん、と返事をした。


「挑戦、してみたいなと思ってっ……」

「まじかぁ! キーボード弾きながらってこと!?」

「う、うん」

「えーそれ最高! 皆びっくりするんじゃね?」


 彼女の意図は分からない。その言葉どおり、歌にも挑戦したいと思っただけなのかもしれない。

 しかしあえてこの形の楽曲を選ぶ理由は一体何なのか。

 馨はそこに彼女の目論見を感じずにいられなかった。


「あのっ、馨くんはこの曲どう思うっ?」


 彼女は緊張した様子で尋ねてくる。

 一人ここで反対して和を乱すわけにはいかない。

 馨は迷ったが、動揺を押し殺して頷いた。


「うん。いいんじゃないかな」

「『いい』!? 最高の間違いだろバカタレ!」


 すぐさま悠大に小突かれる。彼の怒ったような表情は、羨望だけが理由ではないだろう。


「お前warehouseウェアハウスの女神と一緒に歌えんだぞ!? 泣いて喜ぶとこだろ! はあ〜、ずりいなァ! 俺も寧々ちゃんとハモりてぇ〜!」

「じゃあ、俺の代わりにお前がやれば」

 

 ふと淡い期待を込めて馨がそう口走った途端、


「ええ……っ!?」


 寧々が驚いた様子で悲痛な声を上げた。

 目を丸くして眉を八の字に下げ、今にも泣きそうな顔をしている。

 どうしても馨と歌いたい、とでも言いたげな反応だった。


「『ええっ!?』ってどういうことだよ! 寧々ちゃあん!」

「あっ! ごごごめんなさい与那城よなしろくん……! 嫌とかじゃなくて! び、びっくりしただけだからっ……」

「まあまあ落ち着いて。普通に考えて悠大にボーカルは難しいからさ」

「鉈ちまでひでえこと言うなよぉ!」

「だって、それぞれ役割ってものがあるじゃん? 悠大はベース上手いから、そっちで頼りにしてるって。な、馨?」

「うん、まあ……」


 本気で悠大に代わりを務めさせようと思ったわけではない。出来心と駄目元で口にしただけである。

 しかし思いがけず寧々の願望の強さを感じてしまい、馨は更に恐くなっていた。

 

「ちなみに安心院あじむさんは弾きながら歌える?」


 鉈落にそう問いかけられ、彼女は不安そうに唸る。


「う……実はあんまりやったことはないんだ。家でピアノ弾きながら、何となく口ずさむくらい……」

「そっか。でもまあライブまで時間あるし、大丈夫じゃない?」

「そうかなっ……?」

「うんうん。四人で集まれなくても、馨と安心院さんさえ揃えばそこの練習はできるだろうし」


 鉈落の順当な提案が馨に重くのしかかる。

 二人きりで練習する光景を想像し、尚のこと先行きを不安に思った。

 再び恋心を思い出さずにいられるのだろうか。

 

 そんな馨の不安を知る由もなく、寧々は頬を赤くしたまま小さな手を握り締めた。


「馨くんっ。私、下手くそだけど頑張るから……! よろしくお願いしますっ」

「うん。俺の方こそ……よろしく」


 平静を装って頷いたものの、表情を上手く取り繕えたかは分からなかった。



 それから互いに意見を出し合い、数曲の候補を決めた。他にも練習の大まかな予定などについて話し、その場は解散することになった。

 

「俺ちょっと部室寄ってくかな〜! 誰か先輩飲みに連れてってくれるかもしんねえし! 三人も行こうぜ!」

 

 毎度のことながら席を立つなり悠大が言う。

 馨も時々は付き合ってやるのだが、週の始めからそんな気分にはならなかった。


「俺はパス」

「はあ〜? 寧々ちゃんは? 鉈ちは?」

「私はこれからバイトだから、ごめんなさいっ」

「俺は部室行くけど、ドラム叩きたいだけだから……飲みはパスかな」

「何だよそれぇ!」


 全員に断られて悠大は不満げだった。だが部室に行くと言った鉈落は、このあと先輩達に強制連行されるだろう。

 ごく日常的な出来事である。


 そんな会話をしたあと学生会館の一階で別れ、悠大と鉈落はサークル棟の方へ向かっていった。


 馨は寧々と帰るつもりはなかった。

 しかし、一つだけある彼女への用事を済ますため、共に学生会館を出た。


「あの、馨くんはもう帰る?」


 寧々はどこかそわそわした様子で尋ねてくる。

 その理由は考えないようにして、馨は首を振った。


「いや。図書館に寄ろうかなと思ってる」

「そ、そっか。残念っ」

「でもその前に、これ」


 馨は菓子屋の薄い袋に入ったハンカチを寧々に差し出した。

 袋から透けている花模様を見て、彼女は目をしばたたかせる。


「あれっ? 私のハンカチ……! どうして?」

「金曜、打ち上げの飲み屋に忘れてたよ」

「あっ……そうだったんだ! よかった、これ探してたの! 見つけてくれてありがとうねっ」


 彼女は安堵したように微笑んで袋を受け取る。

 よこしまな策略を巡らせているとは思えない、純真な笑顔。

 馨はそれに見入ってしまう前に立ち去ろうとした。


「うん。それじゃあ、また──」

「え、あっ! ちょっと待って、馨くん!」


 寧々が突然慌てたような声を上げる。

 驚いて足を止めた馨を、彼女は一段と頬を染めながらまっすぐに見つめた。


「いきなりごめんね。でもあの、実は私……馨くんにお願いがあったのっ」

「お、お願い?」

「うんっ。私からこんなお願いするなんて、図々しいのは分かってるんだけど……」


 彼女は言葉を区切り、少し躊躇ってから再び口を開いた。


「あのね……どうしても今、聞かせてほしいのっ。──打ち上げで、馨くんが私に伝えようとしたこと」

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