第四十五話

 けい百花ももかの提案にただ困惑した。何を目論んでいるのか推し量ることもできなかった。

 

 そんな馨に対し、彼女は見かねたように小さく嘆息して笑う。

 

「ごめんね? びっくりさせること言って。勿論君が嫌がるなら無理強いはしないけど、これが私達にとって最善の方法なんじゃないかなって思ったんだ」


 彼女は馨の前に片手を掲げた。

 その手に握られているのは、寧々のハンカチだった。


「このままじゃ、君は寧々ちゃんを忘れられない。サークルで顔を合わせるどころか、バンドまで組んでるしね」

「それは……」


 馨はそのことを思い出して不安を覚えたが、続く彼女の台詞が思考を遮った。


「だけど私がいれば、いつも傍で君を慰めて、気を紛らわせてあげられる。そうすればきっと忘れられると思うの。……それに『恋人関係』になるなら、私もができる。形だけだとしても、あの子から君を奪い続けられる」


 彼女の眼差しは一見優しさを湛えている。しかし同時に怒りを滲ませているようだった。


「でも安心して? ちゃんと線引きはするよ。本当の彼氏彼女じゃないから踏み込んだコトはもうしないし、君に新しく好きな子ができたら、お別れでいい」

「……」


 その言葉は衝撃的なものだった。

 理解しがたいと感じると同時に、馨は強く疑問に思った。

 彼女はそれでいいのだろうか、と。


「ねえ、どうかな? 言ったからには私、ちゃんと君の助けになるよ?」

「……それ、本気で言ってんの」

「? どういう意味?」

「お前、仮にも俺のこと……好きなんだろ。なのに仕返しのためとか、他に好きな奴できたら別れていいとか……本当に、そんなんでいいのかよ」


 羞恥心を覚えながらも何とかそう口にする。

 しかし彼女はほとんど迷わず頷いた。


「うん、いい。君の幸せが他にあるなら、私は無理やり隣に居座ろうなんて思わない。君が寧々ちゃんを忘れて、笑って過ごせるならそれでいいの。どのみち仕返しは達成できるんだし」


 彼女が堂々と答えるほど、馨は不可思議な気持ちになった。

 以前彼女が怪我をした日のことが脳裏に蘇る。

 あの時想いを打ち明けた彼女の表情を、馨はなぜか今も鮮明に思い出せた。

 

「じゃあどうしてあの時、俺に好きだって言った? 告白って、相手と一緒にいたいと思うからするんじゃないの、普通」

「……あれは、勢い余って言っちゃっただけ」


 百花の瞳がすっと馨から逸らされる。


「怪我した私に予想外に優しくしてくれたから、伝えたくなっただけ。付き合ってほしいと思って言ったわけじゃない」

「……そんなことあるかよ。嘘ついてんだろ」

「ついてない。もし仮に嘘だったとして、それを暴いてどうしたいの?」

「どうしたいとかじゃなく……俺には理解できないから聞いてんだよ」

「ふうん? とにかく、君が寧々ちゃんを忘れられれば私は報われるの。付き合えなくても、君が幸せになれるなら何だっていい。私の『好き』はそういうことだから。全部、本当の気持ちだよ」


 その声音はとても頑ななものだった。

 馨は尚もその考え方が理解できなかったが、これ以上問い詰めても無意味な気がしてしまった。


「訳分かんねえ。なんでそんなに、俺のこと……」

「それは、私も分からない。心のどこかからそういう気持ちが湧いてくるの。不思議だよね」

「…………」

「それより話が逸れちゃったけど、どうかな? きっと君に損はさせないよ。あまり悩まないで、楽しいことをしてみるくらいの感覚でいいから……私と付き合わない?」


 彼女の言葉や表情に嘘偽りは感じられない。

 今までの彼女の行動からしても、想いは誠実なものなのかもしれない。


 しかしだからこそ、馨はその提案に応じることはできないと思った。

 恋愛感情がないまま関係を始めれば、その内彼女を傷つける予感がしたからだ。


「……俺にはできない。やることやっといて、虫が良すぎるのは分かってるけど……軽々しく決められない」


 何とかそう絞り出すと、彼女は小首を傾げて唸った。


「んー、そっかぁ。ちょっと重く考えすぎな気もするけど、そうだね、君の気持ちも分かるよ」

「……ごめん」

「ううん、謝らなくていいんだよ。言ったでしょ? 君は何も悪くないって」


 優しげな声でそう言って、彼女は馨の手を撫でた。


 しかし気に留めていないように見えても、心の底では彼女も傷ついているのではないだろうか。

 そんな考えが浮かんで拭えずにいると、彼女は言った。


「ねえ、一花くん、そんな悲しそうな顔しないで。君が辛そうにしてると、私も辛いんだ。一人で悲しむくらいなら……私のこと頼ってほしいのに」


 切なく眉尻を下げた彼女に、馨は一言も返せなかった。

 突き放すことも寄りかかることも適わず、後悔と罪悪感でただ胸が苦しくなった。


 外が更に白んで、部屋の中も薄明るくなっていく。

 百花はふと、悲しげに伏せていた目を眠そうに擦った。

 先ほど馨が目覚めたときに起きていたということは、眠れずにいたのかもしれない。

 その間彼女は、何を考えていたのだろうか。

 

「……百花」

「ん、なあに?」

「明日起きてから……もう一回話そう。ちゃんと、謝りたいし」


 せめてもの罪滅ぼしをするように、馨はそう提案した。

 彼女は目を瞬かせて面食らった素振りを見せる。


「え、何言ってるの? 君は悪くないってば」

「だとしても……今は眠くてその判断が正しいのかも分かんねえから。とにかく、少しは寝ないと」

「う、うん。寝るのはいいけど」

ベッドここ使って。俺あっちで寝るから」


 そう言って傍を離れようとすると、彼女に腕を掴まれた。


「待ってよ。一緒にここで寝よう?」

「え? いや……それは、駄目だって」

「今更じゃん? もう何もしないから……近くにいて。お願い」


 馨はその要求を突っ撥ねられないと思った。

 後ろめたさがある手前、応えなければいけないような気がしたのだ。


「……分かった」


 仕方なく頷くと、彼女はほっとしたような顔をした。


「ありがと。無理言ってごめんね。……お休みなさい」


 そう言って隣に横たわり、目を閉じる。

 そして程なく寝息を立て始めてしまった。

 馨はその顔を見つめ、止まない雨の音を暫し聴いていた。

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