第四十六話

 同日の午前11時。


 けいはリビングのテーブルに伏せ、テレビに目を向けていた。

 アナウンサーがニュースを淡々と読む声に混じって、洗面所の方からはシャワーの音が聞こえる。


 ──明け方に言葉を交わした後、馨と百花ももかは泥のように眠っていた。

 そして先ほど漸く目が覚め、今は彼女にシャワーを貸している状況である。


 こうして待っている間、馨は自分の犯した過ちと彼女にされた提案について延々と考えていた。


『君が幸せになれるなら何だっていい。私の『好き』はそういうことだから』


 百花が言った言葉とその時の表情を思い返す。

 彼女の価値観は馨にはとても理解しがたかったが、嘘をついているようには見えなかった。


『きっと君に損はさせないよ。あまり悩まないで、楽しいことをしてみるくらいの感覚でいいから……私と付き合わない?』


 その提案を受け入れることはできない、と馨は思っていた。

 目的は何であれ、形だけの──恋愛感情の伴わない交際など現実的には考えられなかったのだ。

 彼女が自分に好意を抱いているなら尚のことである。

 応えられるわけではないのだから、期待を持たせるようなことはできない。


 しかし、また週明けから大学に行けば寧々に会う。

 昼に部室で集まるのは当たり前になっているし、サークルでの活動をする上で必ず関わっていくことになる。

 つまりこれから馨は、物悲しさを独りで何かに昇華し、忘れる努力をして行かなければならないということだ。


 ただ一人、自分の気持ちを知っている百花を頼ることなく。


「……大したことじゃない。すぐ忘れられる」


 馨は言い聞かせるようにそう独り言ちた。


 ◇

 

「お待たせ、一花くん。シャワー貸してくれてありがとね」


 それから少しして、身支度を終えた百花がテーブルの向かいに座った。


「さて……どうかな? 昨日よりかは少し考えられた?」


 彼女の声音は穏やかだ。

 馨は頷いて居住まいを正し、口を開いた。

 

「昨日は、本当にごめん。百花は俺に非はないって言ってたけど……安易だったと思うし、そこは謝らせてほしい」

「うーん。まあ分かったよ、受け取るだけ受け取っておくね」

「……それから、昨日の提案」


 ここで躊躇う必要はない。馨は緊張を覚えつつ、単刀直入に告げることにした。


「やっぱり、形だけ付き合うことはできない。百花の言ったことも気持ちも全部本当だと思ってるけど、だからこそ、いい加減なことはもうしたくない」


 何とかそう言い切ると、彼女は特に表情を変えず首を傾げた。


「そっか。何度も言うけど、本気で好き合うことが目的じゃないから気にしなくていいのに」

「……けど、お前が俺を好きなことには変わりないだろ。だったら、それは無視できない」

「私は君が幸せになれて、あの子に仕返しができるならそれで十分なんだけどな」

「……」

「でもまあ、君の意思は尊重したいかな。そんな風に悩ませたいわけじゃないし」


 彼女はあっさりそう言い、一度言葉を区切って微笑んだ。

 

「ちゃんと考えてくれてありがとね、一花くん」

「……いや。気持ちに応えられなくてごめん」

「ううん、全然。そもそも私が勝手なこと言ったんだし。……あ、そうだ」

「?」

「じゃあせめて、友達でいてくれないかな? 私の復讐は叶わないけど、多少君を励ますことはできるだろうし」

「友達……」


 唐突に思ってもいなかった単語が飛び出し、馨は思考の切り替えに手間取った。

 彼女は頷き、構わず話を続ける。


「うん。嫌なら無理強いはしないけど……やっぱり君のことが心配だし、そういうの抜きにしても、君とバンド組んでみたり、普通に色んなこと話したりしたいんだ。駄目かな?」


 初めて彼女への警戒心が薄れたのは、告白されたときだった。

 予想外に純粋な胸の内が垣間見えたからだろう。

 加えて昨日、今までの彼女の行動とその理由も知ることができた。

 それを鑑みればもう警戒の必要はなく、友人でいることを別段渋る理由もない──のかもしれない。


 しかし一線を越えてしまった今、互いに何のしがらみもなく接することができるのだろうか。


 そんなことを思っていると、彼女が可笑しそうに笑った。


「私、今君が考えてること分かるよ。『嫌とは言わないけど、一度シちゃってるし気まずいな』……じゃない?」

「! ……そりゃ普通、そう思うだろ」

「そうかな? ちゃんとこうして話し合ったし、もう折り合いはついてると思うんだけどな。それに、私は一回寝たくらいで執着したり彼女面したりしないよ。君は違うの?」


 相変わらず明け透けな物言いである。

 しかし馨は振り回されまいと首を振った。


「分かんねえよ。今までこんな経験なかったんだから」

「まあ、それはそっか。じゃあ、試してみる価値はあるよね? やっぱり無理、と思ったら終わりにすればいいんだし」

「……」


 安易な判断をすることに慎重になる。

 馨が必死に自分の中に落とし込もうとする最中、彼女は小さく息を吐いた。


「だってどうせ君、自分一人で抱え込んで忘れようとしてるでしょ?」

「! それは……」

「君の人生、そんなことに時間費やしてたら勿体ないよ。ここに事情を知ってて気持ちを理解してる奴がいるんだからさ、頼りにしようよ。それとも、人生なんてどうでもいいと思ってる?」

「……そうじゃないけど」

「じゃあ友達で決まりだね。とりあえずでいいから、そうしてみようよ」


 百花はそう言うと席を立った。

 馨はそんな彼女を呆けて見つめる。


 自分とは物事の捉え方がまるで違ったが、戸惑いながらも清々しさを覚えた。

 彼女の言うとおり、試してみてもいいのかもしれない。

 己の目で確かめなければ何事も本当のところなど分からない、ということを馨は思い知ったばかりだ。


「それじゃ、そろそろお暇しようかな。長居しちゃってごめんなさい」


 彼女は鞄を持ち、お辞儀をして廊下の方へ足を向ける。

 馨は我に返ってその後を追った。


「にしても、泊めてくれてありがとね。あの雨に打たれなくて命拾いしたよ」

「いや……俺こそ、昨日は迷惑かけたから。……助かった」

「いえいえ〜。介抱するのは慣れてるし」


 軽い調子でそう言いながら彼女は振り返った。

 そしてじっと馨を見つめる。


「ねえ。一花くん」

「……な、何?」

「もし私と友達でいるのをやめたとしても、ってことだけは約束してね」


 僅かに口の端を上げているその表情は微笑みだ。

 しかし馨はその裏に違う何かが隠れているように感じた。


「つまり、それは寧々ちゃんを忘れるってことでもある。今後あの子が改心して、君だけを愛してくれるなら話は別だけど……きっとあの欲張りな悪魔にそれは無理だから」

「悪魔って……呼び方」

「妥当だよ。君と結ばれることを『浮気』だなんて言い表した罪は軽くないもん。──なんて、私の個人的な感情はさておき。どうか自分のことをもっと尊重してあげてほしいな」

「別に、粗末にしてるつもりはねえけど……まあ、うん。努力する」

「ふふ。が分からなかったら教えてあげるから」


 今度は悪戯っぽく笑うと彼女は玄関のドアを開けた。

 雨は止んでいるようで、真昼間の白い日差しが眩しい。


「それじゃあね。また大学で会おう」


 彼女はまだ少し濡れている外廊下へ足取り軽く出ていく。


 馨はその背を見送り、ドアを閉めてリビングの方へ踵を返した。


 彼女の甘い残り香が鼻を掠めて漠然とこれから先のことを不安に思う。


 ──と、その時。

 不意にどこからか、微弱な低い振動音が聞こえてきた。

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