第四十四話

 その間、百花ももかとはろくに言葉を交わすこともできなかった。


 彼女の唇から零れる甘い吐息と囁き声が、ひたすらけいの耳を支配した。

 

 寧々ねねも恋人と同じようなことをしているのだろうか。

 そんな嫌な妄想が浮かんで馨は吐きそうになり、助けを乞うように目の前の彼女を抱き締めた。


 ただ短絡的に欲が湧いただけではなく。

 彼女の優しさを受け入れて縋ってしまった。

 そんな感覚だった。



 ◇



 不意にそっと髪を撫でられ、馨は眠りから目覚めた。

 酷い頭痛と体の気怠さを感じる。

 重い瞼を抉じ開けると、視界はなぜか柔らかい闇で遮られていた。


 窓を叩く雨音が響くだけの世界。

 当然今の時分も分からない。


 ほぼ反射でスマートフォンを探そうと身動みじろいだとき──馨は気がついた。

 細く柔い腕に抱かれていることに。


 瞬間、心臓が跳ねる。

 それと同時に頭上から吐息が聞こえた。


「一花くん?」

「……!」


 その声を聞いて馨は慌てて起き上がった。

 早朝だろうか、カーテンの隙間から漏れる薄明かりに、声の主が淡く照らされる。

 彼女は遅れて身を起こすと馨を見つめた。

 

「ごめん。髪触ったから、起こしちゃったね」

「……百花」


 ブランケットが滑り落ち、百花の華奢な肩が露わになる。

 それを見た馨は断片的に思い出していた。

 自らの、あまりに理性が欠落した行為を。


 あの瞬間彼女に縋りたいと思っていたのは確かだった。

 しかし恋慕の情もない相手と肌を重ねるなど、傍から見れば単なる愛欲と変わりないだろう。

 そんな考えに至り、馨は自分に失望した。


「どうしたの? 一花くん。どこか具合悪い?」


 彼女は何事もなかったように首を傾げる。

 馨はその眼差しを見返すことができず、目を伏せた。


「百花……、ごめん。いくら酔ってたとは言え、こんなこと──」


 そこまで言いかけた馨の唇に、細い指先が宛てがわれる。

 彼女は緩やかに首を振って言った。


「謝らないで。君は何も悪くないのに」

「いや……こんなこと、駄目に決まってるだろ」

「どうして? 私達、誰かに迷惑かけたりした? お互いフリーなんだから、何をしようが私達の自由でしょ」


 その台詞に馨は困惑した。


 行為自体に恋愛感情は必須でないと言う人間も確かにいる。

 しかし、まさか自分がそれに当て嵌まるとは思ってもみなかったのだ。


「君がそこまで気に病む必要ないのに。もしかして、初めてだったりした?」

「……そうじゃない、けど。ただ、どう考えても軽率だったから」

「そんなことないよ。数時間前の君には助けが必要だったし、私も君のために何とかしたかった。それに何より、私にはするっていう明確な目的があったし」

「仕返し、って……」


 馨はその単語を心許ない記憶の中でも聞いた気がしていた。


 百花は眉根を寄せて少し苦い顔をし、口を開く。


「寧々ちゃんに、だよ。君を裏切って傷つけたから」

「でも……これのどこが仕返しなんだよ」

「立派な仕返しでしょ? あの子からお気に入りを取り上げたんだから。──今はまだあの子、君をだと思ってるだろうけど」

「……」

「とにかく、少しも君に非はないよ」


 馨は彼女の主張については理解できたが、かと言って自分のしたことを受け入れられなかった。

 好意に応えないまま関係を結ぶことは、その相手を利用するようで残酷だと感じたからだ。


 形は違えど、寧々がしたこととも変わらないのではないか。

 そう思うと罪の意識は消えないどころか増していった。


「だ、だとしても、こういうことは普通──」

「『恋人同士でするものだ』って言いたいの?」

「……だって、そうだろ」

「ふうん? ふふ。可愛いね」

「なっ……何笑ってんだよ。俺は、気持ちが伴ってなくて申し訳なかったって、真剣に思ってんのに」

「そっか、ごめんね。ありがとう」


 百花は苦笑し、ふと当然のように近付いてきた。

 馨が思わず壁まで後退りしても、距離を狭めて体に指を滑らせてくる。


「でも、何度も言うけど自分を責めないで? そもそも私が強引なことしちゃったのが発端なんだから。君に楽になってほしくて、あの子に仕返ししたくて……そんな気持ちで頭がいっぱいだったんだよ」


 彼女の口から小さな溜め息が漏れた。

 

「こんなんじゃまだ、足りないのにね。全然君の力になれてないのにね」

「…………」


 馨は軽々しく否定も肯定もできなかった。

 彼女の言葉に嘘偽りがないのなら、こちらがどう返事をしてもただ罪悪感を覚えるだけだったからだ。


 何も言えぬまま沈黙の時が過ぎる。

 雨音だけが響く中、窓の外の薄明かりは先ほどより微かに白んでいた。

 思い出したように部屋の時計に目をやると、短針は4と5の間を指していた。


「ねえ、一花くん。ちょっとお願いというか、提案があるんだけど。いいかな」


 ふと彼女が静かに言う。

 馨は視線を時計から彼女に戻した。


「……提案?」

「うん。確認するけど、君はまだ私に『申し訳ない』って思ってくれてるんだよね?」

「そう、だけど」

「寧々ちゃんのこと忘れたいって気持ちも、変わらない?」

「……変わらない」


 馨は刹那迷ったが、そう口にした。

 寧々の心の内を知ってしまった以上、もう忘れる他にはないと思っていた。


 返事を聞いて、百花は小さく頷く。


「そっか。じゃあさ────


 私達、付き合わない?」

 

「……え?」


 予想だにしない台詞に彼女を凝視する。

 彼女は困ったような複雑な笑いを零した。


「とは言っても、ただのだけどね。だから深刻に捉えなくていいよ」

「は……? ど、どういうこと。意味分かんねえよ」


 馨が問いただすと、彼女は薄暗がりの中で何かを拾い上げて言った。


「そのままの意味だよ。『形だけのお付き合い』。……君と私のための」

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