第四十三話
「……な、何」
「君のそばにいてあげないと、って思って」
「……え」
「独りにしたくないの。君が今日のこと思い返して、悲しんでたら嫌だから」
「…………」
その言葉を聞いて、馨の弱った心は僅かに揺らいだ。
しかし今は、半端に同情されるほど惨めになる。
忘れられるものも忘れられなくなりかねない。
「ねえ。きっと忘れたくても、すぐには忘れられないと思うんだ。だけど私──」
「もういい。何も聞きたくない」
耳を傾ける余裕もなく遮る。
だが彼女は首を横に振って尚も言った。
「お願い、聞いて。一花くん」
「ほっとけって言ってんだよ」
「君のこと助けてあげたいの。私にできるか分からないけど……」
「しつけえな、お前に関係ねえだろ」
馨は思わずそう吐き捨てた。
すると、百花の目に見る見るうちに涙が浮かんだ。
「関係なくない……、関係なくないよ」
「……」
「どうして分かってくれないの……本当に君のことが好きなんだもん。君が悲しんでると、私も辛いんだよっ……」
彼女は手で顔を覆って泣き出した。
その悲痛な姿に、馨はただただ戸惑った。
「……泣くことねえじゃん」
「私に何かできるなら、してあげたいのに。少しでも楽にしてあげたいのに……っ!」
小さな手の隙間から、涙が止めどなく零れる。
これではどちらが哀れなのか分からない。
「もう分かったから……早く休もう。俺も、お前も」
「一花くんはっ、寧々ちゃんのこと憎くないの?」
彼女の声は震えていて、涙を流す目は激情に満ちていた。
「あの子、君が好きなのに、平気で彼氏とキスしてたんだよっ?」
「……」
「きっとキスしてる時も抱かれてる時も、君のことは少しも思い出さないんだよっ。思わせぶりな態度で、人をその気にさせておいて! そんなの、許せないでしょっ……」
恋人に縋りつく寧々の後ろ姿が脳裏に浮かぶ。
馨は眩暈とともに深く胸が痛むのを感じた。
「やめろよ……これ以上、自分が馬鹿だったって思いたくない」
「違う、君は馬鹿じゃない。寧々ちゃんが悪いんだ。人の気持ちを踏み躙ったからっ。私は許せない……あの子も、同じ苦しみを味わうべきなんだ」
「同じ、苦しみ?」
「そう。……ねえ、一花くん。教えて」
百花は涙を拭って馨に迫った。
「君はどうして寧々ちゃんを好きになっていったの? 今まで二人の間に、どんな出来事があった?」
「……なんでそんなこと、言わなきゃいけないんだよ」
「話して、お願い。思い出させるのはこれが最後だから」
「また惨めになるだけだろ……」
「大丈夫だよ、もうそんな思いさせない。だから話して」
「……」
その言葉すら信じてしまいそうなくらい、馨の心は擦り減っていた。
苦痛を葬ってくれるのなら何にだって縋りたかった。
「出来事って言っても……一つひとつは、他愛ないことだよ」
自然と馨は口を開いていた。
「俺を見つけたら、いつも嬉しそうな顔してて。街案内したいからって買い物に誘ってくれたり……俺に、誕生日プレゼントくれたりもした」
夢のような日々を思い返せば、それだけで目の前が滲む。
百花はそんな馨を見つめて続きを待っていた。
「今日なんて、緊張してるから手握ってほしいとか、お願いしてきて……打ち上げでも、下の名前で呼んでほしいって……」
全て何にも代えがたい思い出だった。
しかし、寧々にとってはそれが何だったと言うのか?
そう思うと辛くなり、馨は力なく首を横に振った。
「正直、期待してた。でもただの思い上がりだったんだ。俺だけ一人で、馬鹿みたいに──」
そこまで言いかけたとき。
不意に百花が腕を伸ばし、言葉を遮るように馨を抱き締めた。
彼女の温もりと柔らかさが、服越しに伝わる。
「なっ、何だよ……!」
馨は狼狽えて抗議の声を上げたが、彼女は腕を解かなかった。
力尽くで突き飛ばせないのを分かっているようだった。
「あの子、そんなに酷いことしてたんだね。辛かったね」
「おい、離れろって……っ」
「でも大丈夫。これで全部忘れさせてあげるから」
「え──」
それ以上は言葉にならなかった。
彼女に唇を塞がれたのだ。
一瞬呆気に取られた後すぐに押し返そうとしたが、それより先に彼女の唇は離れた。
「いきなり何してんだよ……!」
「一花くん、あの子に恋したまま落ちていかないで。私が助けてあげるから」
彼女は馨の上に伸しかかって腕の力を強めた。
「まずはその思い出の分だけキスしよう。ね」
「! だ、誰がそんなこと──」
必死に拒もうとしたが、酔いのせいで視界がぶれる。
腕にも力が入らない。
気づけば無理やり上を向かされて、再び口付けされていた。
手に持っていた寧々のハンカチが毟り取られる。
抗議の言葉は呑み込まれ、濡れた感触が唇の上を滑るたびに拒む意志が薄れる。
馨はその口付けをひどく心地良いと思ってしまった。状況さえ違えば、身を任せたくなるほどに。
もはや自分より力の弱い彼女を遠ざけることもできなかった。
口付けの合間にせめて、言葉で彼女を止めようと試みる。
「も、いいって……」
しかし彼女は聞く耳を持たない。
唇への愛撫は一層優しく執拗になる。
「……百、花」
理性の残滓で彼女を呼ぶ。
すると彼女は少し唇を離し、馨を覗き込んだ。
「ねえ、馨。
「え……?」
「お願い、呼んで」
思考力などとっくに崩れかけていた馨は、意味を理解しないまま唇を動かした。
「千、恢?」
「嬉しい、初めて呼んでくれた。ね、もう一回呼んで」
「千恢……」
「うん」
彼女にそっと髪を撫でられる。
「もう悲しいことなんてない。大丈夫、私が助けてあげるから──寧々ちゃんに仕返ししようよ」
優しい囁きと共に、唇だけでなく耳元や首筋にも口付けを落とされる。
ついにシャツの中にまで入ってきた彼女の手を、馨は止められなかった。
優しげな淡い茶色の瞳は、温かい夕日のよう。
白い手が伸びてきて、頬に添えられる。
「馨……」
艶めく唇が弧を描く。
微笑んでいる。
細められた彼女の目から一粒、慈しむように涙が
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