第四十二話

一花いちはなくん、起きて! 君の家、ここで合ってる?」


 呼びかけと共に肩を揺さぶられて、けいは再び目を覚ました。

 停まったタクシーの中にいることを認識し、隣を見ると百花ももかがいた。

 彼女はしきりに窓の外を指差している。

 雨が窓ガラスに激しく打ちつけるせいで見えにくいが、目の前にある建物は確かに馨の住むアパートだった。


「合ってる……」

「じゃあ降りるよ、もうお金払ったからっ」


 そう言って彼女は先にタクシーを降り、折りたたみ傘を開く。

 馨はそれを追って何とか自力で外へと這い出た。

 未だに視界が揺れていたが、傘を差した彼女に腕を組まれて転倒を免れる。


「雨やばいね! ねえ、君の部屋ってどこ?」

「205号室……二階の」

「え。二階? 今の君に階段はハードル高そうだなぁ〜」


 隣で彼女は分かりやすく不安そうな顔をする。

 馨はそのとき不意に、先ほど地下鉄で覚えた違和感の正体に気がついた。


「お前……なんで、付いてきてんの」

「え? 君一人じゃここまで来られなかったでしょ? とにかく支えてあげるから、階段上るよっ」


 馨は彼女に引き摺られて、あれこれ考える暇もなく足を前に運んだ。


 雨の中、時間をかけて階段を上る。

 鍵を開けてやっと室内に到達したときには、妙な達成感を覚えたほどだった。


 馨は靴を脱ぎ捨て、玄関の床に座り込んだ。

 酔いそのものというより眠気がとにかく強かった。

 このままここで眠りたい。

 そう思って目を閉じかけると、強めに肩を叩かれた。


「ちょっと一花くん! ちゃんと着替えて、ベッドで寝なきゃ風邪引いちゃうよっ」

「別に、いい。……ほっといて」

「いやいやっ、ほっとけないからここまで来たんですけどー?」


 その台詞で、馨は先ほど気づいたことを思い出した。

 困ったような顔をして立っている彼女を見上げる。


「てか、お前……どうすんの。また駅まで戻って……地下鉄で、帰るわけ?」

「うん。まあ、そうするしかないかな。タクシーは高いし」

 

 彼女は小さく肩を竦めてそう言う。


 馨がスマートフォンの時計を確認すると、時刻は既に午後11時を回っていた。

 こんな時間に大雨が降る中、歩いて駅まで行くのは危ない上にかなり労力がいる。

 ぼんやりとそう考えて馨は財布を取り出した。


「お金、多めに返すから……帰りはここから、タクシー乗れよ」


 札を渡そうとすると、彼女は首を横に振って馨の手を押し返した。


「要らないよ。私の意思で付いてきたんだから、気にしないで」

「いや……でも、だからって、歩いて駅まで行くのは……」


 彼女の手には水の滴る折りたたみ傘が握られている。

 この横殴りの雨の中では、強度も大きさも心許ない。

 現に二人は、その傘を差したにも関わらず雨で濡れてしまっていた。


「大丈夫。私、夜道は慣れてるし」

「そういう問題じゃ……」

「いいから、早く立ってっ。ちゃんと部屋まで行こっ」


 百花に腕を引っ張られ、馨は仕方なく立ち上がる。

 どうすれば彼女が雨に打たれずに済むか、回らない頭で考えた。

 いくら普段は気を許せない相手だとはいえ、このままでは申し訳が立たないからだ。


 短い廊下を経てリビングに着く。

 百花は馨をダイニングテーブルの椅子に座らせ、部屋に壁付けされているキッチンの食器棚に近寄った。


「お水飲もっか。えーっと、グラスはどこかな?」


 彼女の後ろ姿を眺める。

 すると馨の頭の中に、一つだけ案が浮かんだ。

 できれば選ぶのを避けたかったが、いかんせんこの天気と時分ではそうも言っていられそうになかった。


「はい、お水どうぞ」


 水の注がれたグラスが目の前に置かれる。

 百花は向かいの椅子に座った。


「勝手に上がり込んでごめんね? 君があと少ししゃっきりしたら帰るから」

「……百花」

「ん? なあに?」

 

 彼女は頬杖をついて首を傾げる。

 馨はグラスに視線を落とし、一拍置いて言葉を続けた。


「時間も遅いし……今日、泊まっていけば」


 ありもしない下心を疑われ、揶揄やゆされてしまうだろうか。

 そんな不安が馨の胸をよぎる。

 しかし、彼女は意外にも茶化さず馨を見つめて言った。


「いいの? 君そういうの嫌いそうなのに」

「……いいも何も、歩いて帰られる方が、困る」

「んー、そっか」


 彼女は少しだけ思案したあと、すぐに頷いた。


「じゃあ、お言葉に甘えようかな?」

「……おう。寛げるかどうかは、分かんねえけど」

「ううん、ありがとね」

「シャワーとか着替えは……もしどうしても必要なら、貸す」

「ほんと? 正直言うと浴びたいところかな。ライブで汗掻いたし、外寒くて体冷えちゃったし。助かるよ」

「じゃあ……廊下の途中の引き戸。そこ開けたら、洗面所と風呂だから」


 それから日用品の置き場や勝手を説明したあと、馨は隣の部屋のドアを指差した。


「寝る場所は……嫌じゃなければ寝室あっちに、来客用の布団とブランケット出しとく。……あと何か、必要なものは?」

「ないよ、ありがと」

「……ん。俺はちょっと休むけど、分かんないことあったら、声かけて」

「うん、分かったよ」


 馨は残っていた水を飲み干し、覚束ない足取りで寝室に入った。

 眠気に逆らうのもとっくに限界が来ている。

 最後の力を振り絞って来客用の寝具を敷くと、力尽きて床に座り込み、ベッドに凭れかかった。

 

 俯いて目を閉じようとする。

 しかし、ふとズボンのポケットから覗いているものに気がつき、馨はそれを引っ張り出した。


 よく見るまでもなく、寧々が居酒屋に忘れていったハンカチだ。


 ぱたり、とそれを持った手を下ろす。

 一度は酩酊して空になったはずの脳内にあの光景が蘇り、録音で聴いた寧々の言葉が響く。

 何一つ忘れられていない。

 忘れられるはずがなかった。


 言い表せない感情に押し潰されそうになったそのとき。


 ドアが開く音が聞こえて、馨は視線を上げた。

 部屋の入り口に、百花が神妙な顔をして佇んでいた。


「……百花?」


 彼女は何も言わず、まっすぐ馨に歩み寄ってきた。

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