第四十一話

「……ーい。おーい、けい。起きてるかー」


 不意に肩を揺すられて、馨は目を覚ました。

 目の前には、心配そうに顔を覗き込む鉈落なたおちがいた。


「ん、あれ……?」


 馨は目を瞬かせて辺りを見回した。

 そしてやっと、自分のいる場所が居酒屋の店内ではなく店先のベンチであることを認識する。

 打ち上げの会計が終わるのを外で待っていたその数分で、座ったまま眠りこけていたのだ。

 そうと気づいた今も、意識は心許なく浮遊している。


「ちょっと飲みすぎたんじゃないか? 大丈夫?」

「んー……うん」

「二次会はどうする? 今参加人数数えてるみたいだけど」

「……や、もう、帰る」

「そっか。残念」


 馨は先ほど先輩達の誘いを断ったのを朧げながら思い出した。

 若干呂律も回っていないこの状態では、どう考えても無謀だったからだ。


「あはは、勿論っすよー!! 俺は何次会でも行きまぁす!」


 聞き慣れた声がした方を見ると、駐車場の一画に集まった部員の中で悠大ゆうだいが先輩相手に張り切っていた。

 彼も相当酔っ払っている。だが、自分の足で立てているだけ馨よりはましに見えた。


「……鉈ちも悠大あいつと一緒に、行ってくれば?」

「うーん。でも馨、一人で帰れそう?」

「ん……大丈夫」

「雨も降ってるし、俺の家泊まってく? ここから近いよ」

「いやぁ、二次会行ってきな……せっかくだし」

「でもなんか心配なんだよなぁ」

「全然、へーきへーき」

「本当? なら、いいんだけどさ」


 ちょうどそのとき、会計が済んだらしく係が店から出てきた。

 それを見て副部長が号令をかける。


「よし、じゃあ二次会行く奴らはついて来い! 帰る奴らはトラブル起こすんじゃねえぞ!」 

「はーい! お疲れ様っしたー!」

「お疲れ様です!」


 二次会組も帰宅組も皆口々に挨拶をし、その場を離れていく。

 心配そうにする鉈落に手を振って送り出したあと、馨は背凭れに体を預けた。


 外は風もあり、季節のわりに肌寒い。

 庇に当たる雨の音と店から漏れる笑い声だけが辺りに響いていた。


 黙っていると寧々のことを思い出してしまう。

 だが眩暈めまいのせいで、すぐには歩き出せそうにもなかった。

 少し休んでから帰ろう。そう思って目を閉じたとき。


「さ、帰るよ! 一花くんっ」


 突然明るい声がして、ぽんと両肩を叩かれた。


 顔を上げた馨に向かってにっこり微笑んだのは、百花ももか千恢ちひろだった。

 彼女とはあの後も少し言葉を交わしたはずだが、会の後半は何を話したか覚えていない。


「……またお前かよ……」

「わ、ひどーい。さっきまであんなに沢山お話してたのに」

「覚えてねえ……てか、二次会。行かないの?」

「行かないよぅ。雨降ってて寒いし、もう帰りたいからぁ」

「あっそ……じゃあな、お疲れ」

「おーい! 寝ちゃだめっ。一緒に帰ろうってば」

「むり、立てないし……お前が想像してるより、酔ってんだって」

「もうっ」


 彼女は短く息を吐き、屈んで目線の高さを合わせてきた。

 雨の匂いに混じって甘酸っぱい香りがする。


「ここ外だし、風邪引いちゃうよ! あそこにタクシーいるから、一緒に駅まで乗ろう?」

「……帰りたきゃ一人で勝手に帰れよ」

「二人で乗った方がお得なんだから。ほら、行こ!」

「いや……あっ、おい、引っ張んなって……」


 馨は腕を引っ張られて蹌踉めきながらベンチから立ち上がった。

 眩暈がしてもお構いなしに歩かされ、タクシーの前まで行く。


「早く乗ってっ」


 ドアが開くや否や、馨はぐいと背中を押されて後部座席に乗せられた。


「地下鉄ちどりたに駅までお願いしまーす」


 後から詰めるように乗ってきた彼女が勝手に行き先を告げる。

 馨は抗議しようとしたが、胸焼けが酷くて閉口している間にタクシーは発車してしまった。


 居心地の良い座席と車内の薄暗さで睡魔が襲ってくる。

 それに必死に抗っていると、隣の気配が少し近づいてきた。


「一花くん。着いたら起こしてあげるから、寝てていいよ?」


 顔を覗き込んでくる百花を馨はただ見返すことしかできない。

 その言葉に甘えるのは不本意だったが、両の瞼にそんなことは関係ないようだった。

 

 ◇


『──まもなく2番ホームに葵泉あおみ行きが到着します。ご注意ください』


 抑揚のないアナウンスが響き渡る。

 次に馨が目を覚ました場所は、地下鉄のホームにある長椅子の上だった。

 いつの間にタクシーを降りていたのか。その記憶が馨の中にはなかった。


「あれ……?」

「あ、一花くんやっと起きたぁ」


 隣には百花が少し困ったような顔をして座っていた。


「ここまで辿り着いたのはいいけど、君また寝ちゃうんだもん。今次の地下鉄来るから、頑張って起きててね」

「……タクシーは?」

「さっき降りたよ。もしかして覚えてない?」


 彼女は可笑しそうに目を細めて笑った。


「一花くん、ほんと酔っ払ってるんだね。もっと見るからにになってれば分かりやすいのに。静かに記憶無くされると、ちょっと怖いよぅ」

「……悪い」


 馨自身も戸惑っていた。

 酒に酔って記憶が飛ぶという話は人に聞いて知っていたが、まさか身をもって体験するとは思ってもいなかったのだ。


 呆然としている間に地下鉄がやってきて、百花に腕を引っ張られた。

 何とか乗り込んで、空いた席に隣り合って座る。

 

 この駅から美麻みあさまでは40分近く乗っていなければならない。

 馨はその間起きていられる自信が全く持てないほど、また眠気に襲われていた。

 不安になりながらぼんやり路線図を見つめる。

 すると不意に手を握られ、馨は驚いて隣を見た。

 当然手を握ってきたのは百花だ。


「……な、何」

「美麻まで寝てなよ? また起こしてあげるから」

「いや、そうじゃなくて、手……」


 振り払おうとして手を動かしたが、強く握り直されて彼女の太腿の上に置かれてしまった。


「着いたらこの手引っ張ってあげる。はい、お休みっ」

 

 素面ならば絶対に受け入れていないはずである。しかし馨は、この時ばかりはなぜか安堵してしまった。

 同時に漠然と違和感を覚えたものの、それが何なのか分からないまま再び眠りに落ちた。


 ◇


「一花くん! 美麻着いたから降りるよっ」


 突然強く腕を引っ張られ、馨は寝惚けた状態のまま彼女と共に地下鉄を降りた。

 そしてホームで休む暇もなく、改札へ上がるエレベーターに乗り込む。


「ねえ、君の家って駅から近いの?」

「……15分、くらい」

「うーむ。じゃあまたタクシー乗った方がいいね。まだ雨降ってるだろうし」


 彼女の言ったとおり、駅の外は相変わらず雨が降り続いていた。

 それどころか先ほどよりも雨足は激しい。

 二人は急いで乗り場に向かい、タクシーに乗り込んで自宅の住所を告げた。


「にしても一花くん、ほんと二次会行かなくてよかったね。もし行ってたら、今度こそ完全に潰れてたよ」

 

 車が走り出して間もなく、百花が苦笑いをして言う。

 馨もそれは尤もだと感じていた。


 そして同時に、こんな有様になった原因を思い出す。


 寧々ねねを店の外まで追いかけさえしなければ、自棄になって酒を呷ることもなかったのだ。

 

「……忘れ物ハンカチ渡すのなんて、次に会うときでよかったのにな」


 思わずそう零した馨の手にそっと、百花の小さな手が重ねられた。

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