第四十話
『好きになっちゃ駄目なのに、そう思えば思うほど、抑えられなくて……』
百花のスマートフォンからノイズと共に聞こえたのは、確かに
その声は馨にとって生々しく、恐ろしいものだった。
『でも寧々、
友人らしき声が困惑気味にそう尋ねる。
馨は茫然と耳を傾けながら、やはり亮輔というのは恋人の名前だったのだと悟った。
『うん……私が大学卒業したら、ね』
『だよね? なのに、亮輔さんと別れるの……?』
『い、今更亮輔を裏切るなんてしないよ。ご両親も私を娘みたいに思ってくれてるし、私にとっても亮輔は特別だし……あの人には、私がいないと駄目だから……』
『じゃあ、そのサークルの友達を諦めるってこと?』
『……でも、すごく惹かれちゃうの。私の自惚れだけど……馨くんも私のこと、好きでいてくれてる気がして』
『そうなんだ』
『もし、付き合ってほしいって言われたら私……馨くんと、浮気しちゃうかも。心のどこかでそれを望んでて……馨くんの気を引くようなこと、してる自分がいるの』
寧々の悲しい声はまるで凶器のようだった。
彼女からの好意を何よりも望んでいたはずなのに、手に入れたそばから失われていくのが分かった。
『そんなに好きになっちゃったの?』
『うん……。勿論、亮輔のことは裏切らないよ。少しの間だけでも、夢見たいなって。結婚したらもう、後悔しても戻れないから……』
『そっか。寧々は今まで束縛されてきて辛かっただろうから、私は止めないよ』
『でもほんとにほんとに、最低だよね。私……』
『絶対、どっちにも知られちゃ駄目だとは思う』
『うん。そう、だね。傷つけたくない、から……』
音声はその言葉で締め括られる。
馨が言葉を失っていると、百花は無言のまま携帯を下ろした。
その目が涙を湛えていたので、馨は少し驚いた。
「……なんで、お前がそんな顔してんだよ」
「君が可哀相だから。ごめんね、余計辛い思いさせて」
「いや……知りたいって言ったのは、俺だし」
彼女は馨から目を逸らした。
「もっと早く教えてあげてたら、君も今日こんなに傷つかなくて済んでたかな……。でも私、言えなかったんだ。寧々ちゃんが彼氏と別れて君と付き合う可能性もあるかもしれないのに、部外者の私がそれを妨げるのは違うって思ったから」
何が正解だったのかは馨にも分からないが、寧々に恋をしたことだけは不正解だと思いたくなかった。
今日までの毎日は味気なかった人生の中で、最も幸せに思えた日々だったからだ。
しかしどんなに恋しくても、それはもう戻らない。
馨は息を詰まらせて口を噤んだ。
「だけど寧々ちゃん、君のこと好きだなんて言って……ただ欲を満たすための存在として扱ってるのと一緒だよね。そのうち捨てる気でいたんだから。やってることは反吐が出るほどの外道なのに……自分の浮気心が美しい苦悩や葛藤にでも見えてるのかな?」
彼女の声は震えている。
馨は自分だけでなく彼女まで哀れに思えた。
「結婚まで意識してる彼氏を捨てることも、君だけを選ぶことも、あの子にはできないんだよ。悪者になりたくないから。心の綺麗ないい子だと思われていたいから。もうとっくに、物凄く汚いのに!」
「……」
「人を都合よく弄んで、自分だけイイキモチになってるんだよね。天使みたいな顔して、やってることは悪魔そのものだよ。人の想いを踏み躙って、
「……百花」
「思いがけずパートナー以外の人に惹かれる気持ちは分かるよ? 君に好かれて嬉しいのも分かる。だけど、自分を想ってくれてる人を傷つけるなんて、絶対にやっちゃいけな──」
「百花! もういいって」
口調を強めて制すと、百花は驚いたのか黙った。
真実を知らぬまま、いつか寧々に捨てられるよりは良かったのかもしれない。
しかし到底そう納得しきれないほど馨は苦しかった。
今はとにかく全てを心の奥底に沈めてしまいたいと思った。
「もう、他の席行けよ」
「え? でも……私は、君が悲しんでるままなんて嫌だもん」
「いいから。あっち行けって」
「私の話で余計に辛い思いさせてごめんね。でも君に、あの子がしてた酷いこと、教えてあげなきゃって……」
「怒ってるわけじゃない。ここにいたってつまんねえだろって言ってんの」
「それじゃあ、君だけ元気ないままじゃんかっ」
「どうだっていいだろ……ほっとけよ」
そう言い捨てると、百花はとうとう悲しそうに俯いてしまった。
元々背が小さく華奢だが、余計に縮こまって見える。
泣かせてしまっただろうかと馨が不安になり始めたとき、彼女は不意に顔を上げてテーブルの上を指差した。
「ねえ一花くん、この唐揚げもう食べた?」
その表情は無理に笑顔を作っているように見える。
「……は?」
「このお店の揚げもの、すごく美味しいんだよ。食べてみて」
「何、急に……」
「お酒ばっか飲んで全然食べてなかったでしょ? 見てたから分かるんだよ」
「……」
「ほら、レモンもあるよ? 勝手にかけちゃうね」
彼女は新しい取り皿を一枚取ると、唐揚げを置いてレモンを絞った。
他愛のない話で慰めようとしているのだろうか。
そう思うと妙に絆される気がして馨は戸惑った。
「分かったから……お前もうあっち行けよ」
「行かないよ。唐揚げ食べて? 私が直々にレモン絞ったから」
「いらねえって」
「ひどい、どうしてそう可愛くないこと言うのかな」
わざとらしく膨れっ面をしたあと、彼女は唐揚げを自らの口に入れた。
「うん! おいひい」
満足そうに唸って追加で取り皿に揚げものを載せている。
馨はそんな彼女から目を逸らした。
相当に酔いが回って判断力が鈍っている。
彼女の気遣いには甘んじたくないはずなのに、心が揺らぐ。
「ねえ、私のお酒一口飲んでみる? さっぱりしてて好きなんだ。飲みやすいよ」
懲りずに百花は話しかけてくる。
差し出されたグラスには透明感のある綺麗な赤色の液体が入っていた。
「本来はノンアルらしいんだけど、ここのはアルコール入ってるの。あれ、何て名前だったっけ?」
「……」
「人の名前だったような。うーん、思い出したい!」
「……」
「んー、何だっけ! ここまで出かかってるんだけどなぁ〜」
「……シャーリーテンプルだろ。昔のハリウッド女優の」
耐えかねて馨が答えると、彼女は目を輝かせた。
「そう、それだ! よく知ってたねぇ、なんで?」
「確か前に教授が話してたから」
「ふうん? 英文学科ってそんなこと教える教授いるの?」
「……まあ。文化として話題にしただけ」
「なるほど! 面白いね。そういう講義なら受けたいかも」
彼女は明るい声を上げて両手を合わせる。
やはり馨の気を紛らわそうとしているようだった。
「とにかく答えが分かってすっきりしたよ! はい、お礼に一口どうぞ」
もう一度差し出されたグラスが、馨の手の甲に当たる。
その冷たさは火照った肌に心地良かった。
これ以上酒を摂取すべきではない。
頭の中ではそうと分かっていたが、馨はやりきれない感情を忘れたかった。
無意識にグラスに手が伸びる。
「お酒って、こういう時助けてくれるよ」
彼女が促すように柔らかい声音で言う。
言葉を返そうとして顔を上げると、微笑む彼女の姿が二重に霞んだ。
「今日は呑もう、一花くん。皆いるし、もう少しだけなら酔っても大丈夫だから」
小さな手がそっと馨の腕を撫でた。
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