第五章 陥落

第三十八話

 寧々ねねと青年のキスは、とても感情的なものに見えた。

 身長差のせいで寧々は上を向かされて苦しそうだったが、それでも必死に両腕で彼にしがみついている。


 見たくないはずなのにけいは目を逸らせず、そこで立ち尽くした。

 店の中に戻ることさえ惨めに感じてしまい、動けなかったのだ。

 胸の奥がきつく締めつけられる。

 渦巻く感情は、到底一言では表せないくらい滅茶苦茶に絡まっていた。


 どれくらいの時間が過ぎただろうか。

 青年は寧々を放して車の助手席ドアを開けた。

 彼女が乗り込むと、彼は屈んで助手席内の彼女を再び抱き締める。

 馨の立つ位置からは見えないが、恐らくまたキスをしていたようだった。


 やがて彼は彼女から離れて運転席に乗り込んだ。

 そして車は急発進し、瞬く間に見えなくなった。


 それでも馨は少しの間、店先に佇んでいた。

 きつく握り締めたハンカチはまだ寧々の涙で湿っている。


 彼女との思い出の数々が脳裏に蘇ったが、今起きた出来事のせいでそれらは全て幻のようだった。


「あーっ、早くお店入ろ! 雨すごーいっ」


 傘を畳みながら店に駆け込んでくる客で我に返る。

 馨は呆然としたまま座敷へ戻った。


「おーぅ馨! バンドの話、寧々ちゃん何て言ってた!?」


 悠大ゆうだいが陽気に尋ねてくる。

 彼のいるテーブルにはジョッキがかなり増えていた。

 この騒ぎようでは、寧々が帰ったことにも気がついていないのだろう。


「……賛成って言ってたよ」

「まじ!? じゃあ結成を祝ってワンモア乾杯しようぜ!! 馨、お前何飲むよ!?」


 悠大が突きつけたメニューに目を通す。

 しかしその間にも、馨の脳裏には今しがた見た光景がフラッシュバックしていた。

 酒を飲めば忘れられるのだろうか。

馨は藁にも縋る思いで"cocktail"の表記の中から適当なものを指した。


「……これにする」

「おっ! やっぱ乾杯には酒よなー! すいませーん、注文いいっすか!」


 悠大が店員を呼んで注文をし始めると、


「なぁ馨、安心院あじむさんは?」


 同じ席にいた鉈落なたおちが尋ねてきて、馨は一瞬どきっとした。


「門限があるからって、もう帰ったよ」

「そっか。……あれ、馨って喫煙者だっけ? 違うよね」

「え、うん、違うけど」

「だよね。ちょっと服濡れてるから、外の喫煙所行ったのかと思った」

「あ……」


 先ほど馨の立ち尽くしていた場所にはひさしがあったが、風に煽られた雨が当たっていたのだろう。


「……ちょっと酔った気がしたから、外の空気吸いに行ってただけ」

「なんだ、そういうことか」

「うん」


 馨は鉈落に向けて笑顔を作ったが、引き攣って上手くできた気がしなかった。



 そのあと宴会の間中、馨は酒ばかり飲んだ。

 これがいわゆるやけ酒なのかと一瞬思ったが、惨めになるのであまり考えないようにした。

 とにかく寧々のことも、自分が感じた虚無感も忘れたかった。


 隣では悠大や他の同級生が延々とふざけている。

 次第に馨も酔いが回ってきたのか、そんなくだらないことでも笑えるようになってきていた。

 

「なあなあ聞いて、皆! 俺達のバンド名、『ainyアイニー』に決まりましたぁ! 四人の苗字の頭文字で『ainy』!」


 酔った悠大が周りに大声で宣言する。


「随分可愛い名前じゃーん。与那城よなしろくんが考えたのー?」

「ガールズバンドかよ! 安心院さんしか女子いねえのに!」


 誰かがそう言って周りが馬鹿笑いする中、悠大は真っ赤な顔を不満げにむくれさせた。


「アホ! ちゃんと意味あんだぞ! ほら、中国語でアイラブユーって『我愛你ウォーアイニー』って言うだろぉ!」

「うわぁ、結構マジでちゃんとした由来だった」

「あんな酔ってるのに言ってることクソ真面目やん」

「そうだぞっ! 俺ら四人はぁ、愛に溢れたバンドなの! な、馨っ! 俺ら二人なんてもう、相思相愛だもんなーっ!」


 馨は肩に腕を回してくる悠大の額をはたいた。


「ばか、それだと意味違ってくるだろ」


 彼は大袈裟に悲痛な顔をする。


「いだっ! お前俺のこと愛してないん?」

「気色悪いこと言うな」

「ひどいわっ、お互い裸まで見た仲なのに!!」

「たかが修学旅行の温泉だろ」

「冷たいのねっ! まるで水風呂だわ! あんたなんか捨ててやるっ!」


 くだらないやり取りに再び笑いが起こる。

 皆酔っていてつぼが浅くなっているのだ。


 悠大は周囲にウケたのが心地良かったらしく、調子に乗って一人でふざけ始めた。


 結果的に馨は彼の絡みから一時解放され、安堵した。

 と、そのとき。


「私のことは? 愛してくれてる?」


 突然耳元で囁かれた。

 驚いて振り向くと、百花ももかがにやにやしながら傍に座っていた。


「……お前かよ」


 不躾な言葉が口をいて出る。

 だが彼女は気に留めることもなく、楽しげな顔で馨を覗き込んだ。


「珍しくすごい飲んでるねぇ、一花いちはなくん。何かあったの?」

「……別に。ライブの記念にってだけ」

「ふ〜ん?」


 相槌を打ちながらじっと見つめてくる視線が、馨の気をそぞろにさせる。


「ねえ、一花くん。今回は一緒にバンド組めなかったよね」

「それが何?」

「何度も言うけど、君の声すごく好きなんだ。次こそは一緒にやろうよ?」

「いや……掛け持ちする余裕ないし」

「嘘だぁ。上手なんだから、練習増えても苦じゃないでしょ? 歌ってほしい曲とかあるんだよ」


 相変わらずの馴れ馴れしい態度に何となく苛立って、馨は返事をしなかった。


「あ、そうだ! それともう一つ、君に話したいことがあるんだ」

「……今度は何だよ」

「ん〜、ちょっとあっちで話さない? ここ騒がしいし」

「なんでわざわざ。別にここでいいだろ」

「いいから早くぅ」


 百花はそう言うと少し悠大達から離れた位置に移動し、馨を手招いた。

 周りには聞かれたくないことなのだろうか。

 馨は些か面倒に感じたが、早く済ませた方が得策だと思って彼女の傍に行った。


「で、何」

「ふふ。私の話、聞いてくれるんだね」

「……さっさと話せよ」

「そんな言い方しないで? 今話してあげるから」


 彼女は飲み物を飲んで一呼吸置くと、馨を見た。


「私ね、さっきお手洗いに行った帰りに見ちゃったんだけど……

 寧々ちゃん、外で男の人とすごいキスしてたよね」

「!」


 まさかの発言に、馨は驚いて彼女を凝視した。

 対して彼女はいやらしく目を細める。


「でさぁ、それをずっと見てたよね? 君」


 あのとき後ろにいたのだろうか。

 馨は狼狽えて咄嗟に何も返せなかった。

 寧々への好意を悟られる気がして、鼓動が激しくなる。

 

「ねえ。覗き見してたの?」

「……ち、違う。寧々が忘れ物してて、渡そうとして追いかけたら、出くわしただけ」

「ふうん、そうなんだ。じゃあどうしてずーっと黙って見てたの?」


 揶揄うような口調だった。彼女の目的が推しはかれず、馨は焦燥感を覚えた。


「わ、訳分かんなくて突っ立ってただけだよ。あんなの目の前で見せられたら普通、びっくりするだろ」

「そう? カップルなんて皆あんな感じじゃない? 私は他人の痴情にそこまで興味ないけどなぁ」

「だから興味があったわけじゃねえって」


 馨はにやついた百花を睨みつけたが、彼女は怯まなかった。

 じっと馨を見返し、やがて口を開く。


「君、本当はさ……すごくショックだったんでしょ。寧々ちゃんのことが、好きだから」

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