第三十七話

「ご……ごめんなさい、馨くん。ちょっとだけ……お母さんに、電話してくる」

 

 寧々ねね青褪あおざめた顔で、振動し続けている携帯を握り締めてそう言った。


「うん、いいよ。待ってるから」

「ご、ごめんね……」


 目も合わせず、彼女は足早に座敷から出て行った。


 馨は彼女が心配で堪らなかったが待つ以外に術はない。

 歯痒く思いながら見た窓の外では、強い雨が降っていた。

 


「ごめんなさい……遅くなって」


 しばらく経ってから戻ってきた寧々は、見るからに様子がおかしかった。

 暗い表情で席に戻り、黙ったまま鞄からハンカチを引っ張り出す。


「……寧々?」


 馨がまだ照れを残しつつそう呼ぶと、彼女は突然ぼろぼろと涙を零して泣き始めた。

 取り出したハンカチを顔に押し当て、肩を震わせる。

 声をかけるのを躊躇ためらうほど悲しげだったが、放っておくことも馨にはできなかった。


「ど、どうしたの。何かあった?」

「……全部、全部、私が悪いんだ……っ」


 しゃくり上げながら、寧々はハンカチの隙間からかろうじて言葉を絞り出した。


「無責任で、馬鹿な私が悪いのっ……」

「え、寧々が? どうして?」

「こんな風に、出歩いてっ……皆と、遊んでるからっ」


 親にそう言われたのだろうか。

 それを聞いて馨は、自分も同じように厳しくされてきたことを思い出して複雑な気持ちになった。


「そんな。常識の範囲で自分の好きなことしてるだけなんだから、何も悪くないよ」

「ぐすっ……ううんっ。最近、こういうこと続いてた、からっ……浮かれてた私が、いけないのっ……」


 寧々はハンカチを顔から外し、悲痛な表情で馨を見た。


「ごめん、ねっ……馨くん。今日は、ありがとう」

「……寧々」

「馨くんの話、聞きたかった、けどっ……聞いたら、帰れなくなっちゃう、から。もう、帰るね……」

「……そっか」


 本当は今話したいと馨は切に思った。

 しかし落ち込んでいる寧々を引き留め、あまつさえ告白などする気も起きなかった。


「ごめんね……馨くん」

「全然、気にしないで。今度会ったときにでも話すから」

「うん。またね……」


 寧々は涙を零しながらぽつりと言った。

 そして会計係の先輩と部長のあずまの元へ挨拶をしに行ったあと、居酒屋を出て行ってしまった。

 

 馨は独り肩を落とした。

 仕方がないとは言え、今日も伝えられなかったのだ。

 虚しくなって、ふと先ほどまで寧々の座っていた席を見る。

 

 座布団の上に花柄のハンカチが落ちていた。

 今しがた、寧々が使っていたものだ。


「あ……」

 

 その瞬間、馨の中に想いを伝えたいという気持ちが再び込み上げてきた。

 まるでそのハンカチに後押しされたように。


 彼女は急いで家に帰ろうとしているだろう。

 だから伝えるだけで良いと馨は思った。返事は後日でも構わなかった。


 馨はハンカチを手に取って、急いで席を立った。 

 酔って騒ぐ人々を跨いで座敷を出て、入り口まで向かう。

 ちょうど来店してきた客が傘を持っていた。雨は本降りのようで、どの傘もびしょ濡れだった。

 寧々は傘を持っているのだろうか。


 店の前に出ると、店から少し歩いた先の歩道の端に傘も差さずに立っている寧々の後ろ姿があった。


「! 寧々──」


 声を掛けたのと同時に、彼女の前に車が一台停まる。


 運転席から誰かが降りて来て、寧々の前に立った。

 スーツを着た、背の高い青年だ。


 その青年は傘も差さずに寧々と話し始めた。

 距離が離れているため馨には会話は聞こえないが、彼の表情は怒っているように見えた。


 彼女の兄なのだろうか。

 以前彼女に街案内してもらった時にかかってきた着信の「亮輔りょうすけ」という名前が、馨の頭に浮かんだ。

 

 寧々は叱られているのか、その背中が怯えたように縮こまっていく。

 泣いているようにも見えた。

 あまりに哀れな姿に、その場を取り成そうかと馨が思いかけたその時。

 

 青年が両腕を前に出して、小さくなった寧々を抱き締めた。


 彼女はなすがまま、大人しくその胸の中に収まる。


「……え」


 突然のことで馨は状況を理解できなかった。

 彼女の背には、青年の腕がきつくしっかりと回されている。

 おおよそ兄妹の抱擁ではなかった。


 二人の関係を悟るよりも先に、胸がずきずきと痛み出す。

 心音が頭上のひさしに当たる雨の音よりも大きく響いている。

 

 馨が立ち尽くしていると、青年は寧々からおもむろに体を離した。

 

 そして身を屈めて──

 彼女にキスをした。





────第五章 陥落 へ続く────



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