第三十三話


 それから十数日後。

 運命の初ライブ当日。


 本番の開始時刻は夕方5時だったが、昼過ぎにはwarehouseウェアハウスの部員ほとんど全員が大学の近くにあるライブハウスに到着していた。

 直前のリハーサルを行うためである。


 2、3年生はライブハウスの音響スタッフと打ち合わせ等をしているのでホールに行っており、けいを含めた1年生はリハーサルの順番が来るまで楽屋で待機していた。

 

 楽屋は天井が低く窓がないため閉塞感を覚えた。その上ソファやカーペットは年季が入っていて、微かに煙草の匂いが鼻を掠める。


 普段なら好き好んでそんな場所に留まったりはしないが、馨は今胸を躍らせて室内を見渡していた。

 壁一面があらゆるロックバンドの直筆サインやバックステージパスで埋め尽くされているのだ。

 当然、そこには今や有名なアーティストのものもある。

 

「なんか俺らも有名になった気分じゃね!? 最高なんだけど!」


 隣で壁のサインを食い入るように見ていた悠大ゆうだいが、感嘆の声を漏らす。馨も同意して頷いた。


「だな、あの人達もここでライブやったんだって思うとテンション上がるわ。今日同じステージで演奏するんだぜ」

「そうだよな!! やば! なあ、この壁バックにして写真撮るべ! 地元の奴らに自慢したい!」


 悠大は興奮気味に言って、同じく楽屋にいた寧々ねね鉈落なたおちを手招いた。


「おーい寧々ちゃん、鉈ち! 四人で写真撮ろー!」


 近寄ってくる寧々を見ただけで、馨は胸をときめかせた。


 今日の彼女は、普段と印象の違う格好をしている。

 そでの膨らんだブラウスや淡い色のワンピースは一見彼女らしい。

 しかし、その襟元の後ろで結んだリボンをほどけば背中が肌蹴はだけてしまいそうで、馨の目にはひどく艶やかに映った。


 彼女の麗しさは一辺倒ではない。

 そして、自分がその全てを知れるかどうかは、今日という日に懸かっている。

 馨はそう思って余計に気がそぞろになるのだった。


 ◇

 

 体に響く分厚い重低音。

 スモークの焚かれた空間に走る線状のカラフルな光。

 拭っても絶えない心地良い汗。

 全身全霊で歌い音を奏でる演者。

 歓喜し沸き立つ聴衆。


 夕方5時の開演から、馨はその身に感じる全てに心を奪われ、気分を高揚させていた。

 自分も目の前のステージに上がるということを、直前まで忘れていたくらいだった。


「馨! 次の次、俺らの番だよ。スタンバイしとこ」


 ライブを観に来た外部の客やサークルのメンバーに紛れて盛り上がっていたところで、不意に肩を叩かれた。

 振り返ると、鉈落がホールの入り口を指差している。


「あ、うん! 行く行く」


 馨達四人は、新入生バンドの中では一番トリに近かった。

 一度ホールから廊下に出て奥に進むと、舞台袖に通ずるドアがある。

 その傍に置かれたベンチの横で、二つ前のバンドはスタンバイすることになっていた。



「あーっ! もうすぐ俺らの番だ! どきどきする!」


 刻々と時間が迫る中、悠大はベースを抱えながら浮き足立った様子で言う。

 その横で馨は、手持ち無沙汰でギターの弦をはじきながら頷いた。

 

「うん。思ったより外部のお客さん来てるし」

「このライブハウス、東大路ひがしおおちとか街中にあるわけじゃないのに結構人来るんだよね。まあ有り難いことだけどさ」


 鉈落がそう言うと、悠大は目を輝かせた。


「マジか! 可愛い女の子とか来てて、惚れられたりしねーかな? 俺!」

「え……悠大、そんなよこしまな気持ちで音楽やってたの?」

「あっいや! ち、ちげーよ鉈ち! 誤解誤解!」

「ふうん、まあ悠大らしいと言えばらしいけど」

「だから違うって!」


 三人は緊張しつつもこうして会話していたが、その中で寧々はただ一人、先ほどから口数も少なくそわそわしている様子だった。

 

 彼女の両手は膝に置かれ、鍵盤を弾くように指が動いている。

 馨はその指運びから、弾けないと悩んでいた曲のソロパートだと分かった。

 日々の練習の成果もあって以前よりミスは減ってきたものの、まだまだ不安なのだろう。



 そんな時間も一瞬で過ぎ、早くも前のバンドが演奏を始めている。

 四人は廊下のベンチから舞台袖に移動してスタンバイしていた。

 暗がりの中、悠大と鉈落は高揚した様子で演奏中のバンドに釘付けになっている。

 しかし馨の斜め後ろで、寧々だけは相変わらず己の手元を見つめていた。

 

 ステージから溢れる色とりどりな照明が、寧々の緊張した表情を照らしている。

 馨は、プレッシャーに押し潰されそうな彼女をさすがに可哀相だと思った。

 

「安心院さん、大丈夫?」


 バンドの音に掻き消されないよう、少し近寄ってから声をかける。

 すると寧々は大きな瞳に不安を湛え、ぶんぶんと首を振った。


「ううん、全然大丈夫じゃないっ……」


 手を固く握り締めていて、肩肘も強張っているようだった。

 それでは弾けるものも弾けなくなってしまう。


「手とか解すだけでも、結構気持ち楽になるよ」

「う、うん。さっきやったんだけどね、全然ダメでっ。……もしソロで間違ったら、しらけちゃうよね。どうしようっ……」

「そんなことないよ、皆やばいくらい楽しそうだし。気にしなくて大丈夫だよ」

「でも……せっかく四人で頑張ってきたのに、私が足引っ張っちゃったら……。すごく、申し訳ないよ」


 そう言って、彼女は手元に視線を落とした。

 それからおずおずと顔を上げ、馨を見つめる。


「あ、あのね、手が冷たいの、すごく。だっ、だから……」


 震える両手が、馨の前に差し出された。


「お願い、馨くん。手、握ってっ……」

「えっ」

 

 その言葉が一瞬理解できず、馨は固まった。

 しかし彼女は懇願するような眼差しで、まっすぐに手を伸ばしている。

 自分達の出番は目前に迫っていた。

 他意を推し量る暇も、躊躇っている暇もない。

 何より、彼女が望んでいる。


 馨は意を決して、彼女の手に触れた。

 その手は柔らかいが、驚くほど冷たい。

 反射的に温めようと両手で包むと、彼女は切ない顔をした。


「馨くんの手、気持ちいい……安心する」

「そ、そっか。良かった」

「でもダメだよね、甘えてばっかりじゃ……。臆病なの、ほんと治んない……」


 彼女がそう言ったとき、馨は頭の中で閃いたことがあった。

 もしかしたらこれで、彼女は元気を取り戻してくれるかもしれない。

 そう思った馨は、少し強めに彼女の手を握った。

 そして、照明が反射する彼女の瞳を見つめる。

 

「大丈夫。寧々ならできる」


 彼女が昔よくピアノの発表会で母親にかけられていた、と言っていたまじないの言葉。

 それを思い出されるまま口にした。


 大きな目をさらに丸くする寧々。

 ステージからの白い光に照らされたその顔は真っ赤だった。

 余計だったかと不安になる馨をよそに、彼女は慌てたように口をぱくぱくさせた。


「えっ、あの、馨くん、今、わっわた、私の、な、名前っ……」

「名前……? あっ」


 馨は気がついた瞬間に彼女の手を放した。


「ご、ごめん。つい馴れ馴れしく、呼び捨てしちゃった」

「あっ……う、うん……っ」

「でもほら、気休めくらいにはなったでしょ。悠大も鉈ちも一緒にいるし、大丈夫だよ。安心院さん、なら」

「え……ああ、ありが、とっ」

 

 それ以上寧々の顔を見ていられず、馨はステージの方を向いた。

 同時に前バンドの演奏が終わって鮮やかな照明が一度落ちる。


「わっ、よっしゃ出番だぞっ!」


 興奮気味に悠大が声を上げる。

 馨が自分の言動に照れている間に、晴れ舞台の幕は開いていった。

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