第三十一話

 けいは飛び出して行った寧々ねねを追ってライブハウスの外に出た。

 表には姿が見当たらず、裏の駐車場に回る。

 すると、建物の外壁に沿ったコンクリートの段差に座り込む彼女を見つけた。


 一度深呼吸してから、彼女へ近づく。


安心院あじむさん」


 馨が声をかけたのと同時に、彼女は弾かれたように顔を上げて目を丸くした。


「あ、馨くんっ……!」

「ごめん。一人にしてあげたかったんだけど、さすがに心配で」

「あの……きゅ、急に飛び出して、ごめんなさいっ。戻らなきゃ、駄目だよね……」

「ううん、なたちも悠大ゆうだいも心配はしてたけど、別に怒ってないし平気」

「……そっか」

「それより、安心院さん大丈夫? さっきすごく辛そうだったけど」


 様子をうかがいつつ馨がそう尋ねると、彼女は気まずそうに視線を下げてしまった。

 それきり返答がない。

 馨は恐る恐る間隔を空けて隣に座り、彼女の横顔を見て口を開いた。


「俺には、話しづらい?」

「う……」


 焦げ茶色の瞳がじわりと涙をまとう。

 彼女が泣き出しそうな気がして馨は慌てた。


「ご、ごめん。嫌なら聞かないよ。ただ、何とかしたいなって思っただけで。その、大事なバンド仲間だしさ」

「馨くんは……私に怒ってない、の?」

「……え、俺が安心院さんに? どうして?」

「だって私が、みんなの足引っ張ってるからっ。ライブまで、もう2週間もないのに……」

「? 足引っ張ってるなんて、俺は全然そんな風に思ってないよ」

「……Newluminousニュールミナスの『with you』、後半のキーボードソロ」


 寧々は悲しそうな顔で馨を見る。


「何回か前の練習から、上手く弾けなくなったの。気づいてる、よね」

「……ああ、そう言われてみればそう、かな? でも別に気に──」

「あのソロの後に馨くんの歌が入って、すごく、大事なところなのにっ。私が、私が弾けなくなったから……っ」


 馨の言葉を遮り、寧々はせきを切ったように泣き始めた。


「馨くん達にがっかりされるって思うと、恐くなって……もっと指が動かなくなっちゃって……っ」

「そんな。俺達はがっかりなんてしてないよ」

「優しい言葉かけてくれても、本当は内心いらついてて、私、見放されるかもしれないって、不安になるんだっ……」


 淡い色のスカートに涙がいくつも落ちる。

 彼女の苦悩が思いのほか深刻なことに馨は驚き、気づけなかったことを悔やんだ。


「俺は本当に何の不満もないよ。むしろいつも楽しかった」

「うぅ……」

「でも、悩んでるのを打ち明けづらい環境にしてたなら、ごめん」

「ううんっ……私が、弾けないのが悪いから……」

「違うよ、そんなことない。安心院さん、頑張ってるのに」


 馨は首を振って、彼女の沈痛な横顔を見つめた。


「とにかく、俺達は見放したりしないよ。弾けるまで一緒に練習するし、それでも弾けなかったら少し変えてもいいんだし。まずは安心院さんが楽しくないと、意味ないから」

「……馨くん」

「俺だけじゃなくて、悠大と鉈ちも同じ気持ちだと思う。だから、何も心配しなくて大丈夫だよ」

「……うん」

 

 寧々は幾らか和らいだ表情で頷いた。


「……私、こんなことで悩んで、心配かけて、ごめんね」

「ううん。ライブなんて初めてだし、不安になって当然だよ」

「そう、かな」


 彼女は視線を落として両手を見つめる。

 そして、小さく溜め息をついた。


「私、弱虫なんだ。鍵盤が弾けなくなるくらい、緊張で指が冷たくなるの……こんな風に」


 その瞬間、コンクリートに置いていた馨の右手に柔らかい何かが触れた。


「──!?」


 手元を見て馨は言葉を失うほど驚いた。


 自分の手に、寧々の左手が重ねられていたからだ。

 

 ひんやりとした小さな手の感触に心がざわめく。

 彼女の顔を見遣ったが、彼女は馨を見ていなかった。それどころか、まだ少し暗い表情をしている。

 彼女にとって、手を重ねたことに妙な意図はないようだった。


「ほ、本当だ。安心院さんの指、すごく冷たい」


 よこしまな気持ちを気取けどられないように、馨は笑ってそう言った。


「でしょ……。昔から上がり症で、ピアノの発表会の前もよく、緊張してこうなってたんだ」

「そっか。その時は、どうやって乗り切ってたの?」

「いつもお母さんが、両手握って『大丈夫、寧々ならできる!』っておまじないかけてくれてたから、それで……」

「そうなんだ。優しいね」

「お母さんの手、温かくて気持ちよかった……今の、馨くんの手みたいに」

 

 寧々は泣き腫らした顔で少しはにかむ。


 その表情は胸を甘く疼かせるものだった。

 馨は目を逸らした。


「そ、そっか。じゃあ、ちょっとは元気出た?」

「うん……」

「なら良かった」

「……ありがとう、馨くん」

「全然」


 そこでふと会話が途切れる。

 彼女の手はそれでも、馨の手の上から離れない。

 

 馨は自分勝手なことを考えた。

 

 今が、想いを伝える絶好の機会なのではないか。

 

 元気のない彼女にそんなことを打ち明けるのは、本来なら場違いも甚だしい。

 だがもしも、彼女が自分と触れ合うことで安息を感じているのだとしたら──少しくらいは踏み込んでもいい、ということなのかもしれない。


 馨は緊張できゅっと痛んだ胸に、深呼吸をして空気を取り入れた。


「安心院さん」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る