第二十八話
週が明けた月曜日の、昼休みが終わる10分前。
ラウンジの自販機で買った缶のブラックコーヒーを飲みながら、教員が来るのを待つ。
本当はコーヒーが苦手なのだが、今日は夕方までみっちり講義があるため、カフェインを摂取しないと身が持たないのだ。
それでもどこかぼんやりするので、気を紛らわそうと携帯を弄る。
すると、不意に目の前に人が立った。
「? ……え」
馨は一拍遅れて顔を上げ、思わず声を漏らす。
「
そう言って微笑んだのは──
相変わらず露出の多い服装で、飄々とした笑みを浮かべて立っている。
馨は、彼女に声をかけられたことを予想外に思っていた。
告白をして気まずくなった相手に、自ら進んで接触しようとする人間などいない。
そう思い込んでいたからである。
しかしその考えは見事に外れてしまった。
彼女は照れくさそうにしている様子もない。
むしろその笑顔は、いつも以上に余裕に満ちている。
馨は彼女の出方が全く読めず身構えた。
「な、何か用」
「うん。私、今日ずっと一花くんのこと探してたんだよ?」
「え……なんで」
「金曜のお礼がしたかったから」
そう言って彼女は、小さな箱菓子を馨の机に置いた。
暗い橙色のパッケージには、金文字で「オレンジピール・ビターチョコレート」とある。
オレンジピールがドライフルーツに加工したオレンジの果皮だということは馨も知っていたが、今はそんなことを気にする余裕はなかった。
「君の好みが分からなかったから、私の好きなお菓子にしちゃった」
「……お礼、しなくていいって言ったじゃん」
「うん、そうだねぇ。でも普通にどこでも売ってるお菓子だし、差し入れ程度に思って受け取ってよ。ね?」
確かにその菓子は手軽なものに見える。
彼女から何かを貰うのは気が引けたが、拒む方が面倒なことになるかもしれない。
そう思って、馨は仕方なく受け取ることにした。
「じゃあ、貰っとくけど……」
「良かったぁ。私チョコ苦手なんだけど、これビターチョコだから、甘さ控えめで気に入ってるの」
「あ、そう……」
「もしかして一花くんも、甘くない物の方が好き?」
彼女はそう言って机に置かれた缶コーヒーを指す。
早く立ち去ってほしいと思いながら、馨は首を横に振った。
「別に。どちらかと言えば苦手」
「じゃあこのコーヒーはただの眠気覚まし?」
「……そんなとこ」
「ふうん、そっか」
彼女は何度か頷いたかと思うと、突然すっとコーヒーを手に取った。
「? あ──」
そして、訝しんで見上げた馨の目の前で、躊躇いもなく缶に口を付ける。
当たり前のように一口飲むと、唇を舐めて彼女は微笑んだ。
「うん、苦くて美味しいコーヒーだね」
「いや……お前何してんの」
「ん? 一口貰っただけだよ。駄目だった?」
「だ、駄目っていうか……普通、他人の飲まないだろ」
「あーそっか。私よく友達と回し飲みするから、ついその癖が出ちゃったよ」
彼女は多少申し訳なさそうに胸の上で両手を合わせる。
馨はその顔から目を逸らした。
彼女の行動に対して抱いたのが、不快感ではなく別の何かだったからだ。
体がぞくっとするような、
「ごめんね一花くん。新しいの買い直してこようか」
「べ、別に……そこまでしなくていいけど」
「そう? でも──」
彼女は少し屈み、馨と視線を合わせて口を開いた。
「このままじゃ、間接キスになっちゃうよ?」
「……!?」
「ふふ、なーんてね。別に大したことじゃないよね」
馨は不意を突かれて言葉に詰まってしまった。
彼女はそんな馨をよそにくすくす笑うと、ひらりと手を振る。
「私もう行かなきゃ。それじゃあね、一花くん。バイバイ」
あっさりと踵を返して、軽い足取りで去っていく背中。
馨はその背に悪態を浴びせたかったが、ここが教室であることを思い出して踏み留まる。
あの夜見たしおらしい彼女は、幻だったのだろうか。
少しでも彼女への警戒心を解いていたことに気がつき、馨はそんな自分がやけに憎くなった。
◇
その日の夕方、馨は中央棟一階の学生掲示板前にあるベンチに座っていた。
先ほど
〈一緒に帰るぞ!! 掲示板前で待ってて!!〉
というMINEが送られてきたのだ。
いつもなら部室に寄ろうと誘われるところだが、今日は直帰したいのだろうか。
そう訊ねたくても悠大は一向に姿を現さない。
昼のこともあって気分が良くなかった馨は、早々に痺れを切らし始めていた。
少し時間が経って、不意にエレベーターホールの方からばたばたと慌ただしい足音が聞こえた。
馨は、文句を言おうと後ろを振り返る。
足音はやはり悠大のもので、彼は一直線に馨の元に走ってきた。
「遅えよお前、どんだけ待たせ──」
「馨!! まじやばい!! 今世紀最大の超大歓喜ニュース!!」
馨は言葉の途中でいきなり肩を掴まれ、激しく揺さ振られた。
咄嗟に悠大の脇腹を殴りつけると、
「うっ!」
彼は呻いて脇腹を押さえたが、すぐに顔を上げて再び馨に迫った。
「お、遅れてごめんて! いやでもマジで大歓喜なんだって! 何なら馨も嬉しいと思う!!」
「何の話だよ。早よ言え」
「俺らの人生の教科書!! 『
「ん? いや、見てないけど……」
『RUINED LIGHT』とは、14年ほど前に日本のゲーム会社から発売されたホラーアドベンチャーゲームである。
馨はそれを人生の教科書と思ったことは一度もないが、独特な世界観が非常に好きなのは確かだった。
中学で知り合った悠大もこのゲームが大層好きで、共にプレイするだけでは飽き足らず、互いの解釈を語り合った覚えもある。
「で、それがどうかしたの」
「来年! なななんと! 『
「うるせえ」
「違うッ! お前が静かすぎるんだよ! もっと歓喜しろ!?」
「喜んではいるけど。わざわざ会って話す必要あった?」
馨の冷めた問いに、悠大は感慨深げな顔をして深く頷いた。
「大アリだよ……! めっちゃ短いけど
「ふーん……じゃあ後で観とくわ。とりあえずもう帰ろうぜ」
悠大ほどの熱量はないにしろ、馨も内心気にはなっていた。家に帰ったら動画を観てネットの情報を漁ろうと思いつつ、歩き出す。
数秒遅れて悠大も追いつき、横に並んだ。
「なあ馨! 俺一つ提案があるんだけど!」
「今度は何」
「続編決定を記念して、今からお前んちで改めて『
「はあ? 今からやったら寝るの何時だよ。明日も講義あるし、無理」
「頼むって! やりたくてしょうがないんだよ! な、いいっしょ? それにほら、俺らしばらく二人で遊んでないやん。ゲームしながら
「しつけえ。お前何か変だぞ」
あまりに執拗な提案に、馨は訝しむ視線を向けた。
しかし悠大はへらへらと笑うだけだった。
「別に、俺はいっつも変じゃん!」
「自分で言うな」
「そんで!? 今から家行ってもいい!?」
「てか……この時間から来るってことはお前、泊まるつもりだろ」
「そうだよ! 駄目!?」
「…………いや、いいけど」
「よっしゃー! じゃあ早く行こうぜー!」
悠大が過剰にはしゃぐ様子を見て、馨は首を傾げた。
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