第二十話
「!」
そして、通路の入り口に立っていた人物を見て反射的に身構えた。
ミルクティーのような色のボブヘアに、そこから覗く派手なピアスのついた耳。
リップで艶やかに色づいた唇に笑みを浮かべ、ショートパンツから覗く細い生足で、彼女──
「や、
新入生歓迎会での彼女の不可解な言動を思い出す。
あのとき無理やり携帯の電話帳に登録された彼女のメールアドレスには、結局一度もメールを送っていなかった。
送るはずもない。
歓迎会以降、見かけても避ける程度には彼女に警戒心を抱いていたからだ。
彼女は手を後ろで組み、目を細めて微笑む。
「音楽雑誌のバックナンバー読もうと思って来たら見知った男の子がいたから、びっくりしたよぉ。ここよく来るの〜?」
「……いや、別に」
メールを送らずにいることに対して何か言われやしないかと馨は不安だった。
彼女も忘れているかもしれないが、早急にここを離れるに越したことはない。
「あ! そういえば」
百花はまた一歩馨に近づいてきた。
彼女は背が低いので、馨を見据える目線は
「英語の授業で、海外の子供向け絵本、1冊読んで感想書いてこいって言われてたんだったぁ」
「……そうなんだ」
「うん。私経済学部なのにさぁ、なんでそんなことしなきゃいけないんだろうね?」
「し、知らないけど。絵本なら、ここじゃなくて階段の近くの本棚にあると思う」
「へえ〜」
彼女は頷きはするが、離れていかずに馨を見ている。
「簡単な本がいいけど、私英語苦手だからどれが読みやすいのか分かんないなぁー」
「あ、そう」
「うん。すっごく大変。だから一花くん、手伝ってくれないかなぁ? 君、英文学科だよね?」
言われる前から嫌な予感がしていた馨は、断り文句をすでに思いついていた。
「悪いけど……絵本は俺も詳しくないし、英語が苦手な人の視点で選ぶのって、逆に難しいから」
当然いいかげんな理由だったが、もっともらしく聞こえるように言う。
すると彼女は軽く溜め息をついた。
「そっかぁ……それは残念」
「うん。役に立てなくて申し訳ないけど、頑張──っ!?」
早々に彼女から目を逸らしたその瞬間、突然腕を掴まれて強引に振り向かされた。
咄嗟に反応できず
「わっ、な、何すっ……!」
「しーっ。おっきな声出しちゃだーめ」
彼女は本棚に手をついて馨に迫った。
彼女の胸元が馨の
馨は目を逸らすことも忘れ、本能的にその深い谷間に見入った。花のような匂いが微かに鼻を掠めて、余計に劣情を煽る。
すぐにでも押し退けるべきなのに、それができないほど刺激的な光景だった。
「ねぇ一花くん。いい子で私の質問に答えてほしいんだけど……」
優しく甘い声で言い、彼女は蠱惑的に微笑む。
「どうして、私にメールくれないのかな? あれから私、ずーっと待ってるのにさぁ」
「う……」
不安が的中して馨は狼狽えた。
苦手意識を抱いたからと言って、自分に興味を示している相手を蔑ろにしすぎただろうか。
しかし、彼女との無難な付き合い方が分からない馨にはああするしか方法がなかったのだ。
兎にも角にも今は、彼女にこれ以上隙を見せるわけにはいかない。
馨は戸惑いながら口を開いた。
「ど、どうしてって……そもそもメールするとは言ってない。俺は、『アドレスを消さない』って言っただけ」
「わ〜、なるほどねぇ。君ってそういう意地悪なこと言うんだ?」
「意地悪じゃない。ただの事実だろ」
できるかぎり毅然として返すと、彼女は少し寂しそうにむくれた。
「むう。だけど、メールくらいしてくれたっていいじゃんか? 私は君のこと知りたいんだから」
「……な、なんで。
「何か理由がないと駄目? せっかく知り合えたから、仲良くしたいんだもん」
彼女は躊躇いなくそう答える。
だがそれはどこか雲を掴むような回答で、どうにも腑に落ちなかった。
ますます彼女が分からなくなってしまう。
何も言葉が出てこず沈黙していると、彼女はふっと笑った。
「まあでもいいや、メールくれなくても。君の頭の片隅に私が少しでも残るなら、それだけで十分」
「は……?」
彼女は不意に馨を解放して後ろへ一歩下がる。
そしてわざとらしく
「一花くん、どうせ
「……」
馨はこれからのことを不安に思った。
彼女の近くにいればいつか、思いも寄らない出来事が起こる。
根拠はないが、今しがた味わわされた悩ましい感触のせいでそんな気がしてしまった。
彼女は愉しげに含み笑いをする。
「だから、これからたぁくさん仲良くしようね。一花くん」
そう言って手を振ると、彼女は馨の返事を待たずに踵を返した。軽やかな足取りで通路から出ていって見えなくなる。
なぜか、彼女を追いかけていって「そんなのは御免だ」と吐き捨てることはできなかった。
思考の整理がつかないまま、馨は先ほど手に取ろうとしていた本を見やる。
見つけた瞬間はあんなにも嬉しかったのに、今はもう微塵も読みたいと思えなかった。
それから1時間もしない内に馨は家に逃げるように帰った。
読書を続けようと試みても内容がすんなり頭に入らず、気も散ってしまい、読み進められる状態ではなくなってしまったのだ。
事前に伝えていた時間よりも早い帰宅で、姉には不思議な顔をされた。
◇
その日の深夜。
馨はまた夢によって、彷徨っていた浅い眠りから強引に現実へと引き戻された。
胸の鼓動が速まっている。
微かに体が汗ばんでいるのを感じ、起き上がって布団を剥いだ。
薄闇の中で、ベッド脇の布団にいる姉を見やる。
彼女はこちらに背を向けて眠っているようだった。
それを確認してから、馨は今見た夢を思い返す。
今度は幽霊の夢ではなかった。
午前中のように大学の図書館にいて、
彼女は馨に何やら話しかけながら悠然と後ろをついてくる。
走れば容易に撒けるはずだが、足が重いせいでなかなか前に進まない。
しまいには、現実の図書館には存在しない通路の行き止まりに追い詰められた。
彼女は不思議なくらい優しく微笑み、目の前にやってきた。
目線を合わせるように屈んだかと思うと、馨をただ抱き締める。
そして耳元で何かを囁いた。
言葉は聞き取れないが、声音が優しいのは分かる。
彼女の匂い。触れ合う体の柔らかさ。
背中をゆっくり撫でるように這う手。
馨はそれに何かを促され、彼女を抱き返し──
その先のことは言わずもがなである。
馨は自分にひどく呆れた。
いやらしい夢を見ること自体は致し方ない。
だがそこに苦手なはずの彼女を登場させるなんて、あまりに見境がなさすぎると思った。
ひとしきり自己嫌悪したあと、馨は纏わりつく身体の騒つきを鎮めるべく、姉を起こさないようにそっと寝室を出た。
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