第十九話

 けいが大学から帰宅すると、洗面所の方からシャワーの音が聞こえてきた。

 廊下を進んで洗面所に行く。

 目に入った脱衣かごの中には、姉の衣服が置いてあった。


 馨は特に声をかけずに手を洗っていたが、ふとシャワーの音が止んで、バスルームのドアが少しだけ開いた。


「馨、お帰り!」


 その隙間からあやが顔を覗かせる。

 笑顔は爽やかだったが、頭を洗っていたのか前に垂らした純黒の髪から水を滴らせている様は、まるで女幽霊のようであった。


えーよ」

「ん? 何が? あ、私がお風呂上がったらご飯にするからちょっと待っててね! お腹空いてるだろうけど!」

「う、うん」


 ドアが閉まり、再びシャワーの水音がし始める。

 馨は何となく落ち着かない気分になり、寝室へ行った。

 クローゼットを開けて、叔父から貰ったギターを手に取る。

 曲の練習もかねて綺が上がってくるまで弄っていれば時間も潰せるだろう。

 そう思いながらベッドに座り、ヘッドホンアンプをギターに繋いだ。



「馨、お待たせ! ご飯食べよう」


 数十分後、綺がドアを開けて呼びかけてきた。

 馨は生返事をしてギターをスタンドに立てかける。

 寝室を出ると、彼女は困ったような笑みを浮かべていた。


「ねえ馨、あのギター……どうしたの。自分で買ったの?」

「いや。こっち来てからそうさんに貰った。進学と引っ越し祝いに」


 そうというのは叔父の名である。

 今の馨と同じく道外に一人で住んでいて、音楽関係の仕事をしている。

 馨は弟のように自分を可愛がってくれる創をとても慕っていた。


「そっか。まだ好きだったんだね……楽器」

 

 まるでそうであってはいけないかのような口ぶりで彼女は言う。

 馨はむっとして言い返した。


「気晴らしに触るくらい別にいいだろ。せっかく貰ったんだから」

「それは、そうだけど」


 本当なら軽音楽サークルに入ったことも堂々と言いたかったが、それは絶対にできない。

 勉学に励むことを誓って家を出た馨が、よりによって父の嫌悪するものにうつつを抜かしていると知られたら、全てを取り上げられる可能性があった。

 当然馨は、サークルに所属しても勉学を怠る気など更々さらさらない。

 しかし父は、馨の主張を何も聞き入れてはくれないだろう。


「ねえ、馨。こんな言い方したくないけど、創さんの真似しようとしちゃ駄目だからね」


 馬鹿らしいほど神妙な顔つきで綺はそう言う。

 馨は呆れて溜め息をついた。


「何それ。父さんみたいなこと言うなよ」

「だって……。勿論、お父さんやおじいちゃんは元々厳しい人だよ? でも、ここまで厳格になったのは創さんが逆らってきたせいでもあ──」

「やめろよ。そんな話聞きたくない」


 少し語気を強めて彼女を遮る。

 彼女は弟を案じているつもりなのかもしれないが、馨にとってはただただ不愉快なだけだった。


「ごめんね……だけど、馨が創さんみたいに叱られたりするところ、見たくないから」

「余計なお世話。姉貴がどう思ってるのか知らないけど、俺は父さんとの約束どおりまじめに勉強してる。叱られる筋合いなんてねえよ」

「……そ、そっか」


 綺は萎れた様子で頷いたあと、残念そうに微笑んだ。


「馨は、昔からそうだったね」

「……何が」

「見てるこっちがハラハラする時もあったけど、意外とお父さんに叱られてこなかったよね」

「当たり前だろ。やれって言われたことはちゃんとやってたし」

「うん……そういうことなんだね」


 そう言ってしんみりしている彼女を置いて、馨は先にテーブルについた。


「いいからもう食べようぜ。腹減ったわ」

「あ、うん……そうだね、そうしよっか」


 ◇


「馨、明日からの休みの予定は?」


 今夜も再び暗闇の中で綺との対話が始まった。

 進んで馨から切り出しはしなかったが、拒むこともなかった。


「休みだけど、明日は大学行こうと思ってる」

「そうなんだ。どうして?」

「ちょっと図書館行きたくて」

「偉いね、勉強?」

「いや。平日あんま行く気起きないから、この機会にゆっくり見てこようかと思っただけ」

「そっかぁ」

「うん。それと、5日は夕方からサークルの友達と会う」

「えっ!」


 ばさ、と掛け布団を剥ぐような音がした。

 恐らく彼女が起き上がったのだろう。


「馨の誕生日会やろうと思ってたんだよっ?」

「約束してないだろ」

「うぅ、友達かぁ……実家にいたときは毎年ちゃんとお祝いしてたから、誕生日は一緒に過ごすって当たり前のことだと思ってたよ」


 彼女の声は少し寂しそうにも聞こえる。


「でも、仕方ないよね……じゃあ明後日、4日でいいから私にもお祝いさせてほしいかな」

「まあ、それは別にいいけど」

「よかった!」

 

 昔から彼女は、馨の誕生日のときは今のように楽しげだった。


 そのあと姉が幼い頃の誕生日の思い出を話し、やがてどちらともなく眠りについた。


 ◇

 

 翌日の午前9時頃、馨は大学のチャペル西側にある4階建ての白い建物に来ていた。

 この建物は1階から3階が図書館なのだが、図書館入口は1階ではなく2階にあるという変わった造りをしている。

 隣の建物と渡り廊下で繋がっている兼ね合いがあるのだろうが、詳しい理由は定かではない。


 階段で2階の図書館入り口までやってくると、改札のようなセキュリティゲートが出迎える。

 書籍の無断持ち出しを防ぐためのものだ。

 馨はそのゲートに学生証を翳して入館した。


 今日は休日なだけあって、学生は少ない。

 司書課の貸出カウンターを素通りし、その近くにある階段で1階に降りた。

 1階は主に利用される頻度の低い洋書や海外雑誌、紀要などが所蔵されている。


 馨が読みたいものは、その立ち並ぶ移動式本棚の中にあった。

 普段は館内のスペース確保のために、棚同士がぴったりとくっついた状態で収納されている。

 棚の側面についているハンドルを軽く回すと、カラカラと小気味の良い音を立てて棚が滑るように横に動いた。

 勿論誰でも自由に動かせるのだが、なぜか隠された仕掛けを解くようで心が躍る。


 出来上がった通路に入ると、本に囲まれることで一層深い静けさが訪れた。

 ほのかに古書の匂いもする。

 馨は居心地の良さを覚えながら、目当ての書籍を探して歩いた。



 およそ2時間後、馨は最初の本を読み終えて再び別の本棚のハンドルを回していた。

 久しぶりの読書が楽しくて、家で読むための本も探そうと思っていたのだ。


 開いた通路を奥まで進むと、馨はちょうど目線の高さの位置に好きな作家の名前を見つけた。

 昔一度読んだきりだったのを思い出し、懐かしさで顔が緩む。

 せっかくだから借りていこうかと思いながら、本に手を伸ばした、そのとき。


「おやおや? そこにいるのは一花いちはなくんかな?」

 

 通路の入り口の方から声が聞こえた。

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