第十八話
突然、伸ばした手をぎゅっと掴まれる。
驚いて目を開くと、暗がりの中で髪の長い女が横たわる
「っうわぁあ!!」
手を振り解こうとすると、女はがばっと馨に覆いかぶさるようにしがみついた。
「馨……! 私、私だよ! お姉ちゃんだよっ!」
「あっ、姉、貴……?」
「もう大丈夫だから……!」
心臓が激しく鼓動している。馨は混乱しながらも目だけを動かした。
時間はまだ深夜らしく、周囲は薄暗い。
コンタクトをつけていないため視界もぼやけているが、家の寝室なのは間違いないようだ。
自分と姉以外に不審な人物がいる様子もない。
あれは夢だったのだ。
どっと安堵が押し寄せて息をつく。
「怖い夢、見てたんでしょ……」
馨にしがみついたまま、不安げに綺が尋ねてくる。
大学生にもなって姉に甘やかされているようで複雑な気持ちになり、彼女をやんわりと自分から引き剥がして体を起こした。
「怖いというか、まあ……昔の夢」
今の夢の状況に似たようなことを、馨は小学4年生の夏休みに曽祖父が住む田舎で経験していた。
「昔って……?」
「小学生のとき、シラハオリの日にさ……俺、怒られたことあっただろ」
夢に出てきたあの社殿のような建物は、曽祖父の家の隣人、
シラハオリの儀式の前にいつもあの場所で大人達が話し合うのだが、そこで彼らが一体何を話しているのか当時知りたくてたまらなかった馨は、盗み聞きしようと思い立ったのだ。
ただ、現実の結末は夢と違う。
建物に近づいた時点で
「あ、あの時のね……。でも今さら、こんなに
「まあ、記憶とちょっと違う展開だっただけ」
「そっか……」
女の幽霊に襲われて怖かったから、などと子供じみたことは言えない。
綺は基本的に面倒見がいいと周囲から言われているが、馨を
そのネタになりかねない話はしない方が得策だった。
「心配かけて悪かった。じゃあ、お休み」
「ね、ねえっ、待って」
「何?」
彼女に背を向けて横になろうとして、腕を掴まれる。
薄暗がりの中、彼女の苦笑が聞こえた。
「あ、あのさ、馨。一緒にベッドで寝ていい、かな?」
「……は? なんで」
「なんかすごく怖くなってきちゃって」
「いや、知らねえよ。さすがに無理」
「お願い、今日だけ……! とにかく本当にすごく怖いんだっ。抱きついたり蹴飛ばしたりしないから!」
「嫌だっつってんだろ。姉貴は魘されたわけじゃないのに、何ビビってんだよ」
「……そ、それは」
「?」
綺は怯えた顔をして口ごもる。
彼女が怖がっている理由は分からないが、少なくともふざけているようには見えなかった。
「まあ……睡眠の邪魔してこないなら、いいけど。今日だけだぞ」
今しがた悪夢から引き戻してくれた恩もある。
馨が仕方なくそう言うと、彼女はほっと溜め息をついた。
「よかった。ごめんね……ありがとう」
「ん。お休み」
彼女がベッドに上がってくる前に馨は背を向けて寝転がった。
空いたスペースにもぞもぞと彼女が潜り込んでくる。
背中に伝わる温もりで、悪夢の余韻が薄れていった。
◇
翌朝目覚めたとき、綺はもう隣にいなかった。
時刻は7時。
まだ眠っていたいが、今日は一講から講義が入っている。
馨は仕方なくベッドから出て服を着替えた。
寝室から出ると綺はキッチンに立っていた。
何か作っているようだったが、同時にスマートフォンを耳に当てて誰かと通話している。
馨が起きてきたことには気がついていない。
「そう……私も見たの。馨と一緒にいたからなのかもしれない」
「?」
彼女を素通りして洗面所に行こうと思っていたが、自分の名が聞こえて足が止まる。
何の話なのか見当はつかないが、声の調子が少し重く聞こえた。
「私すごく不安だよ。ねえ、本当にこのままでいいのかな……? うん……それはそうだけど。……うん」
溜め息をついて間を置いたあと、綺は頷いた。
「分かった。もう少し、様子見てみるね。できるかぎりのことは、やってみる。……うん、それじゃあね」
通話を切った彼女は、後ろのテーブルにスマートフォンを置こうと思ったのか振り返った。
そして佇んでいた馨を見て目を見開く。
「きゃあぁっ! 馨! い、いつからそこにいたの!」
「今起きてきたところだけど」
「えっ、今? じゃ、じゃあ……」
「なんか俺のこと言ってたよね。誰と何の話してたの?」
「う、えっと、お母さんだよ。馨が、自炊しないでインスタントとかお弁当ばっかり食べてるって話してたの」
「……あっそう」
彼女の説明はどこか釈然としない。
しかしどうせ白状しないだろうと思い、馨はそれ以上問い詰めなかった。
「まあいいや。けど、何でもかんでも母さんに言うなよ。後々面倒だから」
「だ、大丈夫だよ。何でもは言わない」
愛想笑いをする彼女に深く取り合わず、今度こそ馨は支度をしに洗面所へ向かった。
◇
その日の昼休み。
馨は
「あのさぁ〜」
しばし何気ない話をしていたところで、不意に悠大が切り出した。
「突然で悪いけど、明日からゴールデンウィークじゃん? 曲練習はまだ合わせるレベルじゃないから家で各々やるとしてさ……四人でどっか遊びに行かね? 5日って暇?」
悠大が日付けを指定した時点で馨はその意図を察したが、返事をせず黙って彼を見ることしかできなかった。
「ご、ごめんなさい
寧々が申し訳なさそうに答える。
「マジかぁ、残念だけど仕方ねえ!
「んー5日か……俺は夕方からしか空いてない。別の日なら丸々暇なんだけど、5日じゃないと駄目?」
「うん、可能な限り5日がいいのよ! な〜、馨!」
「……」
同意を求めてくる悠大から黙って目を逸らすと、彼に肘で小突かれた。
「おいおい、お前なに黙ってんだよ? お前がいないと成立しない予定なんだから、何か言えよな〜」
「……こんなもったいぶられたら恥ずかしいわ。ていうか、別にわざわざやんなくていいし」
「カッコつけてんじゃねえよ! 『もっと俺のこと見て〜!』って素直に自己主張した方がいいぜ?」
「何それ。阿呆か」
「はぁー、もう。つまんねえな!」
悠大は気怠そうに嘆息して鉈落と寧々の方を見た。
そして不躾に馨を指差す。
「実は
「えっ! そうだったの! ああ……私、行けなくてごめんね。馨くん……」
寧々は悲しそうな顔をして、肩を落としてしまう。
彼女の予想外の落ち込みに馨は少し驚きつつ、笑って手を振った。
「いや、そんな気にしないで。別にそこまで重要なことでもないしさ」
「だ、大事なことだよっ。お祝い、したかったな……」
彼女とはまだ出会ってからさほど時間も経っていない。
にもかかわらずここまで残念がってくれる彼女の純粋な優しさが、馨は嬉しかった。
「その気持ちだけで十分だよ。ありがとう、
「うん……」
「そーだよ! 俺らが安心院さんの分まで祝っとくからさ!」
悠大が底抜けに明るく言う。
普段はうるさい男だが、この時ばかりはそれをありがたく思った。
「馨、お前何食いたい? 鉈ちが夕方から空いてるなら、男三人で
「それ俺のいないとこで話すやつでしょ。サプライズの意味分かってる?」
「あ確かに! わりい! ケーキ出てきたらびっくりする演技よろしく頼むわ!」
「いやふざけんな。お前祝う気ねえだろ」
彼の無神経さが腹立たしくて睨みつける。
しかしその軽口の叩き合いで、寧々の悲しげだった顔が少し綻んだのが見えて馨は内心ほっとした。
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