第十七話

 シャワーを終え髪を乾かしてリビングに戻ると、しゅんとなったままのあやは、同じ場所に座っていた。

 けいはできれば彼女を放っておきたいと思ったが、彼女の寝る場所について説明しなければならない。

 一つ溜め息をつき彼女の方へ近づく。


「姉貴の布団、寝室じゃなくてここに敷こうと思ってんだけど、それでいいよね」

「ねえ、馨」


 不意に彼女は顔を上げた。

 泣いているとまでは言わないが、目が少し潤んでいる。

 馨はそれを見てさすがに面食らった。

 

「さっきはごめんね。私、馨にしつこくしちゃったね」

「別に、謝んなくていいって。あー、月イチは御免だけど……気が向いたらたまに帰ってやるから」

「ほんと?」

「う、うん。それより、寝るとこの話。ここでいい?」

 

 馨はテレビの前辺りの空いている場所を指し示した。

 すると彼女はきょとんとして首を傾げた。


「え……馨のベッドの隣に敷いてくれないの?」

「は? 敷くわけねえだろ」

「横になったあともお話しようよ。小さい頃みたいに」

「なんで。やだよ」


 即座に切り返すと彼女はまた俯いてしまった。

 普段はもっと逞しい性格のはずだが、こうも落ち込まれてはさすがにばつが悪い。

 

「あー……もう分かったって。寝室に敷く」

「ほんと? よかった」


 安堵を顔に滲ませる彼女から目を逸らし、馨は布団を敷くために寝室に向かった。


 ◇

 

 夜の11時頃。

 馨は寝る支度を終えて寝室のベッドに横になっていた。

 部屋の照明はすでに消しており、ほとんど視界は闇に包まれている。

 

「ねえ」


 暗闇の中、ベッドのすぐそばから綺の静かな声が聞こえた。


「馨はこっちに越してきてから、困ってることない?」

「ん。特にないよ」

「そっか……。与那城くん以外の友達できた?」

「当たり前だろ。サークルにも入ったし……あっ」

「えっ、そうなの? 何の?」


 思わず口を手で押さえる。

 軽音楽サークルだとは絶対に言えない。

 もしも父の耳に入れば、会ったときにどうなるか分かったものではないからだ。


「え、えーと、映画研究会」


 咄嗟に浮かんだサークル名を口にする。

 実際に、warehouseウェアハウスの部室と同じ階に部室を構えていたはずだ。

 幸い姉は疑うこともなく、そうなんだぁと嬉しそうに言った。


「よかった。楽しんでるんだね」

「うん、まあ」

「映画研究会って、実際に映画撮影したりもするんだよね? もしかして役者さんやったりするの?」

「え、いやー、どうかな。まだ入部しただけだから、具体的にはちょっと」

「ふうん?」


 ぼろが出るのは防ぎたかったので、馨は姉のいる方へ寝返りを打って切り出した。


「て、ていうかさ。姉貴は5日間もここにいていいの?」

「どういうこと?」

「せっかく休み取れたんなら、勇俐ゆうりさんと出かけたりした方がいいじゃん」


 彼女には天谷あまや勇俐という恋人がいる。

 3年ほど前に知人の紹介で知り合い、交際に発展した。

 両親も公認の付き合いで、馨も何度か話したことがあるが、彼は物腰が柔らかく誠実な印象の人物だった。

 そう遠くない内に二人は結婚するつもりでいるらしい。


「ああ、勇くんね! 私は休みだけど、勇くんはお仕事だから」

「でも家に行ってメシ作ってあげるとかはできるじゃん。絶対俺のとこ来てる場合じゃねえだろ」

「ふふ。もしかして、気遣ってくれてるの?」

「別にそういうわけじゃないけど」

「大丈夫だよ。勇くんにはいつでも会えるから。それより今回は、馨に会いたかったんだ」

「ああ……そう」

 

 会いたかったからと言って連絡もなしに突然押しかけてくるのはかなり問題だが、もう口に出さなかった。

 それからも少しだけ会話をしたあと、馨と綺はいつの間にか眠りについた。


 ◇◇


 夏の日差しが照りつける中、馨は草履ぞうりを履いた足でうっすら苔の生えた地面の上を走った。

 ただでさえ着ている袴の内側に熱が篭っているのに、気持ちが逸るせいで余計に暑い。


 敷石に蹴躓けつまずく危険があったが、速度を落とすことはできなかった。

 後ろから姉の綺が追いかけてきているからだ。

 彼女は小学生の馨よりも足が速く、気を抜けば捕まってしまう。


「馨! 待って! そっちに行ったらだめだってばー!」


 背中にかかる彼女の声は、明らかに怒気を含んでいる。


「まってー」


 綺の他に、もう少し幼い少女の声が聞こえた。

 その少女は馨の三つ年下の従妹いとこで、まだ小学1年生だ。

 馨の味方なのだが、足が遅いせいで綺とともに馨を追う形になってしまっている。


 古びた石燈籠いしどうろうや雑木の間を走り抜けると、やがて目指しているものが見えてきた。

 質素で古めかしい社殿のような建物だ。

 床が高く、正面の引き戸の前には階段がある。

 近くまで来ると馨は走るのをやめて、足音を立てないようにその階段に向かった。


「馨、だめだよ……っ」


 ひそひそ声でたしなめられ振り返ると、2メートルほど離れたところに黒い着物を着た綺が立っていた。

 彼女の顔は怒っていたが、傍らの従妹の手を掴んだまま、もうそれ以上は馨に近づいてこない。

 馨は彼女らを無視して階段をそっと上がった。

 中からぼそぼそと声が聞こえる。

 鼓動が早まった。

 大人達の秘密を今日、とうとう知ることができるのだ。

 階段を上りきり、四つん這いで引き戸に近づく。

 中の声が何を喋っているのか分からない。

 しっかり聞いてやろうと、戸に耳を当てようとしたとき。


 す、と戸が動いた。

 

 突然のことで驚いて馨は固まった。

 叱られる。

 そう思いながら上を見上げたが、人の顔一つ分ほど開いた戸の向こうは完全な闇だった。

 先ほどまで聞こえていた声も止んでいる。

 言いようのない危機感を覚えたのと同時に、妙に冷えた風が中から吹いてきて馨の前髪を撫でた。

 逃げなくては。

 戸の向こうに目を向けたまま膝をじり、と後退させると、


「こら」


 闇の中から女性の声がした。

 またしても心臓が止まりそうなくらい驚き、馨は小さく声を上げる。

 姿はどこにも見えない。

 しかし、そこにいる気配。

 馨が動けずにいると、声の主が溜め息をついた。


一花いちはなさんのところのお坊ちゃんでしょう。ここに来てはいけませんよ」

「っご、ごめんなさ……」

「どうして来てしまったの」

「え、えっと……どんなこと、話してるのか、気になって」


 正直にそう言うと、闇の中で衣擦れのような音がした。


「そうですか。それで、盗み聞きしようとしたのですね」

「は、はい……」

「でも、そんなことはしなくても大丈夫ですよ。……知りたいのなら、教えてあげます」

「えっほんとに?」


 女性の思わぬ言葉に、萎みかけていた好奇心が息を吹き返す。


「勿論です。前に手を出してごらんなさい」

「うん!」


 言われた通りに右手を差し出した途端、闇の中から白い手が出てきて馨は手首を掴まれた。

 間髪入れずに凄まじい力で引っ張られ、床に倒れる。


「わぁあッ!?」


 馨はパニックになって手を振り解こうとしたが、痛いくらいに強く掴まれていて敵わない。

 背後で綺か従妹の泣き叫ぶ声が聞こえる。

 階段の柱に手を伸ばしたが、届かない。

 抵抗も虚しく、馨はそのまま中に引き摺り込まれた。


「ああぁっ!! 放して、放して……!!」


 半狂乱になって暴れたが、後ろから強く掻き抱かれてそれを封じられる。

 胴体にきつく腕を回されてしまい、もう上手く力が入らない。

 それでも泣きながら手足をばたつかせていると、頭上から女の囁き声が聞こえた。


「────」

「ひっ」


 何と言っているかは分からない。

 なのに背筋にぞくぞくするような寒気が走り、金縛りにでも遭ったかのように馨の体は強張った。

 笑いを堪えているような女の荒い吐息が、耳にかかる。


「あなたを連れていく。私に毎夜少しずつ喰われなさい。そうすれば知りたかったことは全て分かるようになるから」


 訳が分からなかった。

 しかし考える間もなく馨はずるずると闇の奥へと引き摺られ始めた。

 僅かに開いたままの戸から遠去とおざかっていく。

 このままでは殺されてしまう。

 嫌だ。

 死にたくない。

 馨は必死に戸の向こうの光に手を伸ばし、喉が裂けそうなくらい泣き叫んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る